27年前のことです。祖母が亡くなった後、親族が集まってこれで昔を知る人がいなくなったことが話題になり、それでは亀村のルーツを探しにゆこうということになりました。
先祖は京都の京極通り四条に饅頭やを営み明治の初めの本門佛立講の熱心な信者でありましたが、それ以前のルーツが私たちにはさっぱりわかりませんでした。ただ、兵庫県の奥佐津(城崎温泉から海岸方向に列車に乗って二つ目の駅)辺りから京都に出て来たらしいということは祖母から聞いていたのです。
私はまず電話局に行って兵庫県の電話帳を調べてみました。
佐津の電話帳には亀村姓が数多く並んでいるのを知って、これをたよりにそこへ行ってみれば何かがわかると確信したのでした。
ほどなく親族がいろいろな情報を持ち寄り兵庫県の奥佐津に行ったのです。
そこは山陰海岸から車で15分ほど山間に入ったところで、三方を山に囲まれた小さな村落でありました。私たちはまず村のはずれのお寺を訪れ、明治以前に京都に出て饅頭やになった者がいなかったかを尋ねてみました。
過去帳を調べてもらったのですが、その村のほとんどが亀村姓なのでなかなかこれといった手がかりは出て来ません。今度は村の一軒一軒を訪問してみることにしました。ところが運良く始めて出会った人に、そのむかし、村を後にした亀村の墓があることを教えてもらうことが出来たのです。
墓地は日あたりの良い山の斜面にありました。
そして私達の先祖をお祀りしてあるお墓はすぐに見つかりました。
禅宗の墓碑が並ぶ中、ただ一つだけ法華経の墓が京都のそれと同じ様相で立っていたのです。百年もの時が経っているのでさぞかし荒れているだろうと想像してたのですが、周囲には雑草もそれほど茂ってなく、墓石も古いものではありますがまだまだしっかりとしておりました。 それにしても、明治の時代にこの山奥の地でお墓を立て替えられたであろうご先祖にはまことに感心させられました。
その出来事があってから代々この墓を守っていただいた村の人たちとご先祖に感謝しながら毎年お墓参りをさせていただくようになったのであります。
亀村 俊二
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