月別アーカイブ: 12月 2010

昨年の秋、息子の知人から頼まれて 一匹の小猫をもらいました。 私の母がひとり暮らしをしているので、遊び相手にでも なるだろうと母の家で飼うことにしました。
小猫は、ミーと名付けられました。

野良猫の子としてうまれたミーは 大阪のとある公園で女の子に拾われたのですが 、 夏の日差しと公園の砂埃で小さな目はまともに開けることも ままならぬほど痛めつけられていました。
女の子は子猫を家に持ち帰ったのですが、飼うことが出来ず息子の知人に託したのです。

ミーと私の母は共に楽しく暮らし、半年が過ぎようとするころ、母は突然のぎっくり腰で寝込むこととなりました。 その後、母の身体は順調に快復したものの 母は私に、ミーを預かってほしいと言いだしました。 自分が寝込みでもすれば猫の世話が出来なくなってしまうと感じたのでしょう。

そして、ミーは私の家にしばらく居ることになったのですが、私のところも、ギャラリーとカフェをしているので 、もっとも親しくつきあっている家族に頼み込んであずかってもらうことにしたのです。

あれから1ヶ月、何度もミーの様子を伺いに友人宅をのぞいているのですが 夫婦と二人の娘さんにつぎつぎと可愛がられ南向きの広い庭とガラス戸のはまった縁先、居間には大きな炬燵があり いつもそこで、丸太のように伸びきって昼寝をしているミーと出会うと、野良猫として生まれたミーの人生いや猫生にろいろあったけど、彼にとって今が最高。

ここらで落ち着いてのんびりと幸せに暮らしてほしいとひそかに願うところです。

亀村 俊二

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ウクレレを始める



ギャラリー・ホリゾントに集ういつもの仲間でウクレレ・オーケストラが結成されました。今のところのメンバーは40代~60代の男女7人で、映像や、写真、図案や手芸など、ものづくりの人間達の集まりです。

練習はうまく弾ける者が、初心者に手を取り教えるというものとは言っても、私だけがまったくの初心者で、56歳において始めて弦楽器とのつきあいです。いくら教わってもうまく弾くことができない日々が長く続きました。なんとかメンバーについていけるようにと、ある名案を思いついたのです。

「よし、これは慣れるしかない」 「習うより、慣れろ」「生活をウクレレ漬けにしてやる」

それから、撮影やパソコンの少しの待ち時間をおしんでウクレレを傍らに、1分・2分の短時間練習の積み重ねが始まりました。

慣れというものは恐ろしいものですね。
ウクレレを練習し始めて3ヶ月、曲がりなりにもようやく昨年の暮れに3曲だけのライブを開くことができたのです。
ライブの様子を写した写真が出来てきました。小さなウクレレを抱えての楽しい演奏のようすが捉えられています。少し緊張気味の私とメンバーの顔には溢れんばかりの笑みがこぼれ落ちていました。

バンドの名は「エミーズ」。
いつもの練習日にお茶の世話など引き受けて、そして、いちばんのファンでもある妻の名前にちなんでメンバーが「エミーズ」と名付けてくれました。

亀村 俊二

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弁当箱



小学4年生の頃です。
その日は偶然に、私と兄の遠足の日で、母は二つのお弁当を作ってそれぞれに持たせてくれました。

家には何故か弁当箱が一つしかなく、母は隣に住む叔父の弁当箱を借りてきていたのです。そして、僕がそれをもって行くことになったのでした。

遠足はとても楽しく、すぐに食事時間となりました。皆で輪になり、僕は担任の先生の側に座りました。

一斉に弁当箱を取り出したときのことです。先生は僕の弁当箱を見つけると、「わー、かめむらくんのお弁当箱、ベコベコに歪んでるなあ」と大きな声で言ったのです。

級友達の目は僕の古ぼけたアルマイトの弁当箱に注がれました。そして、おおきな笑いがおこりました。当時の男子といえばアルミのブック型の弁当箱が流行でした。僕の顔は真っ赤になり、楽しかったはずの遠足は寂しい一日と変わってしまったのです。

今、社会の大きな問題になりつつある「学校内のいじめ」が報道されると何故か、私の中であの遠い日の出来事が思い出されてきます。

今日、美大で写真基礎の授業をもって11年となりますが、生徒たちひとり一人がどのように私の言葉を受けいれているのか、ふっと気になりながら授業をすすめている昨今です。

亀村 俊二

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京のもてなし



年に何度か京都に来られて仕事をご一緒する神戸の女性がおられます。彼女は大変京都好きなので、私と妻はいつも珍しいお店を探しておいて、撮影の合間にお昼をご一緒するのです。

先日、こんなことがありました。
「有名人が紹介する京都のお昼・・」という情報誌を見ていると、「老舗がつくる親子丼ぶり」が目に飛び込んできました。

妻 「あまり知らんお店やねえ」
私 「女優さんおすすめの店やから秘蔵の店かも知れんなあ」

そしてその老舗の前に立った私たち三人は、京都らしい町家の店構えに満足しながら中に入ったのですが、「お昼の親子丼ぶりのお客様は奥の二階です」となにかそっけない中居さんの声。

案内されるままに狭い廊下を通って奥座敷の席に着きました。お昼の時間には少し遅かったせいか、そこには一組の家族と修学旅行生のグループが静かに座敷机の前に座っているだけでした。

私たちも空いている席にゆったりと座ることにしました。二階の窓から見る坪庭の風景は瓦屋根と調和してさすが京の町家の風情でした。その景色を楽しんで話しているとすぐに親子丼ぶりが運ばれて来ました。

「もっとつめてください、相席ですから」

中居さんの言葉に驚いて小さな机の端に追いやられた私たちは、「味だけは期待どおりであってほしい」との思いで、早々と出されて来た親子丼ぶりに手をつけ始めました。

楽しみにしていた今回の京都のお昼ご飯は残念ながら期待はずれに終わってしまい、「たまにはこうのもあるよねえ」と妻と神戸の女性は私を慰めてくれるのでした。

勘定を済ませ誰もいない薄暗がりの玄関で靴を履いていると
「すみません~」「おおきに~」「すみません~」「おおきに~」「ありがとうございました~」とはりのある声が聞こえて来ます。

よく目を凝らして見ると暗がりの中、まっくろな九官鳥がしおらしく、けなげに私たちに声をかけてくれていたのです。おもわず心がほころび、なんとも皮肉なこの声に見送られ、笑いながら店を出た私たちでした。

期待に夢ふくらませて、京都に来られる観光の人々が多い昨今、「京のもてなし」にはじゅうぶん心をこめて気持ちよく帰って頂けるようにしてもらいたいものです。

亀村 俊二

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生八つ橋



昭和30年頃、母は京都の新京極通り四条を少し上がった(北に行った)ところでタバコ屋を営んでおりました。
昼間は祖母が、夕方から夜にかけては母が店番をすることになっていました。私はいつも祖母と夜を過していたのですが、時には私をつれてタバコ売りをすることがありました。

当時、新京極通りは京都随一の歓楽街で夜遅くまで人通りが途絶えることはありませんでした。
郊外に生まれ育った私にとっては夢のように光り輝くまぶしい街でした。ガラスのショーケースには「ピース」「光」「しんせい」「パール」に「ゴールデンバット」色とりどりのタバコの箱が隙間なく並んでいます。ぶらぶら歩く通行人の中には、母のいるタバコ屋を見つけてはこちらに近寄って来くる者がいます。

母はガラスのちいさな窓越しに慣れた手つきで次々とタバコを売り、私はカウンターの下の十円や五円玉を揃えては並べ、母の側を離れることはありませんでした。
ところが、奥の店に勤める女性が私を見つけるといつも「八つ橋、買うて来て」「まだ焼いてないのやで」と言って小銭をもたせるのです。

私は大人達がそぞろ歩く夜の新京極通り、ペンキで描いた「映画館の看板絵」、大きな水槽にうなぎを泳がせた「ウナギ釣り」、並んだ人形をコルク玉の銃で落とす「射的」など怖々ながらあちこち覗き歩いてから、八つ橋を買いに行くのです。

八つ橋は店頭で実演して焼かれ、辺りには香ばしいかおりが漂っています。
私はこれから焼かれようとする薄ちゃ色で半透明なものを指差して「まだ、焼いてへんのん、ちょうだい」と言います。店員は少し不満気な顔をするのですが、私が差し出した小銭分の「焼いていないやわらかな八つ橋」を持たせてくれるのです。

子供の頃、八つ橋といえば褐色になるまで堅く焼かれ、噛むと口の中でガラスが割れるような感じがしてあまり好んで食べることはなかったのですが、あのやわらかくて甘いニッキの香を頬張った途端、好きなってしまったことは今も忘れません。

何時の頃からでしょうか。京都名物「生八つ橋」というものが生まれたのは。
「生八つ橋」を口にするといつも思い出します。

あの頃の「ネオンに浮かぶ夜の新京極通り」そして「タバコ屋の母」のことを。

亀村 俊二

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ネス湖の思い出



ネス湖のネッシー伝説がまだ信じられていた頃、1977年にイギリスのスコットランド地方にあるネス湖へ旅をしました。
ロンドンから機関車とバスを乗り継ぎ2日間かかってネス湖の起点の街インバネスに着いたのは午後の3時をすぎていました。
早めにツーリスト案内で今夜のBB(ベッド・アンド・ブレックファースト)民宿を予約してすぐにそちらに向かいました。

BBは三角屋根の可愛らしい家で庭の芝生と赤いバラのコントラストが魅力的でした。
ベルを押すと中からお婆さんが出て来て、この家の住人が居ないので後で来るようにと言われ、とりあえずバッグを置かせてもらって、カメラひとつ持ってインバネスの街を散策しました。

ひととおり街を撮り終えてBBへ帰ってくると、こんどは先とは別のお婆さんが出て来て、また、この家のものが居ないと言うのです。私は今晩の宿泊予約をしていることを片言の英語でなんとか伝え無理を押して部屋へ案内してもらうことにしました。

そして、二階の奥の部屋へ入るなりその様子に驚かされました。壁はピンク色の細かい花柄で金色の曲線の飾り金具の付いたベッドも可愛い花柄でトイレもバスも壁の楕円形の大きな鏡や照明まで金色とピンクで揃えられていたのです。

私は、明朝早くからバスでネス湖に行く計画だったので、風呂に入ってすぐに寝ることにしました。
ベッドで横にはなるものの、私が会ったのはふたりのお婆さんだけでこの家の住人がいないこと、そしてあまりにも奇麗すぎる女性の部屋で自分が眠ろうとしていること、あまい香水のかおりなどが気になってなかなか眠りつくことができませんでした。

もしかして、とんでもない所に迷い込んだのでは・・・部屋の明かりも消せずにうとうとし始めた頃、ドアをたたく音で起こされました。ゆっくりと立ち上がって少しドアを開けると、またまたお婆さんが立っています。先の二人とは別人の・・・その三人目のお婆さんから「居間でお茶にしましょう。」と誘われたのです。

時計を見ると午後9時。
あわてて衣類を身につけ誘われるまま、狭い階段を恐る恐る降りて行きました。
はて、自分はこれから何人のお婆さんと遭えばよいのか・・・。

悩みが解決したのは、居間のソファーに腰をかけてまもなくでした。
三人目に会ったお婆さんが紅茶を入れながら「さあ、それでは皆さん自己紹介してください」宿泊客は私と長期滞在のカナダ人老女、オーストラリア人老女、そしてドイツ人青年の4人それぞれ気ままな一人旅だったのです。
その茶話会が終わってから、あの甘いかおりの部屋で安心してぐっすり眠れたのは言うまでもありません。

亀村 俊二

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遠い記憶 <家>



私は小学生の頃、今から思えば以外なほど積極的で、男女をとわずクラスのほとんどの生徒の「家」へ遊びに行っているような子供でした。
4年生のある日の学校帰り、同級生のO君と意気投合して遊ぶうち、彼は小さな声で「家に来いひん?」と僕を誘いました。
O君は色白で鼻から頬にかけてのそばかすが愛嬌の小柄でおとなしい生徒でした。

僕は彼の「家」へ行くのは始めてです。
おおきな橋を渡りきると彼は急いで橋のたもとの急な階段を降りてゆきます。
僕も後を追って降りて行ったのですが、彼の「家」はその橋の下で、古い板を集めて作っただけの小屋だったのです。それを見た僕は、はっとしましたが、誘われるままその小屋の中に入りました。
そしてO君は彼の家族のことなど真剣なまなざしで話しをしてくれました。僕はO君の「家」を見てしまったことで、彼との関係が変わったことなど、ひとつもなかったと感じていました。

そのことがあってからしばらくして、O君はどこかの小学校へ転校していきました。
そして程なくO君からの便りがあり、僕は彼と会いました。

「僕の家に来いひん?」

僕はまた誘われるまま、歩いて1時間程の道のりを彼についてゆきました。こんどは、織機の音が聞こえる昔ながらの家々が並んだ一角にありました。表でお好みを焼いている駄菓子家で、二階の部屋がO君のこんどの「家」でした。斜めになった低い天井、むしこ窓が妙に明るかったことを覚えています。

そして40年後、偶然に街でO君と出会いました。お互い時間がなかったので長い話しはできなかったのですが、O君がそっと名刺を差し出して言いました。

あの、懐かしい声で、「できれば、いちど来て」・・・と。

亀村 俊二

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始めての個展のあとで



昭和61年の夏
私は始めて写真の個展を開きました。
タイトルは「沼の楽譜」、京都の町中に存在する「小さな池(深泥池・国指定の天然記念物)」の動植物の四季の営みを追った写真展です。

京都人ならちょっと気になる「深泥池」の写真とあって、新聞やテレビでも数多くとりあげられ、会期中2000人を越える人々でにぎわい初個展の成功は大変うれしいことでした。
そして、これで写真家として世間に認められ仕事も増えるだろうと感じていました。

個展も終わり、数日していつもの出版社の担当者からお呼びがかか、り私は当然、良い話しであるだろうと期待して出向きました。

ところが、先方は私の展覧会活動をあまり良しと捉えていないようなのです。
個展は褒めていただいたのですが、どういうわけか写真撮影代の見直しを余儀なくされ、その年から値下げの契約をさせられてしまいました。

追い討ちをかけるように、他社からも「うちは写真の先生はいらんなあ」と言われてしまったのです。京都流に言う「京都人のいけず」をまともに喰らったのでしょうか。私はそれらの出版社から自然と離れることになり、そして、いつか見返してみせると、懲りずに展覧会活動を続けてきたのです。

時がたち、今は仕事抜きにして、どちらの出版社の人達とも、わだかまりもなく付合ってはいるのですが、あの個展のあとの出来事は、『ほんまもんの「京都人のいけず」やったんやろか』、はたまた『小さな成功で有頂天になってしもうた若い自分の言動に問題があったんやろうか』
最近接する若い写真家たちを見て、ふっとあの頃の自分を思い起こす昨今です。

亀村 俊二

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東海道新幹線にて



先日、東京行きの新幹線に妻とふたりで乗ったときのことです。

列車は静岡駅に着きました。そこで、アナウンスがあり 「車内に急病人がでました。ご乗客の中にお医者さまがおられましたら、3号車まで至急おこしください。」

突然、通路を挟んだ臨席の50代半ばの男性は立ち上がり、駅弁の箸を放り出して列車の後方へ向かいました。
「今の人、お医者さんかなあ」と妻と顔を見合わせ心配していました。
列車は20分ほど遅れはしましたが、ようやく走り出し程なくその男性も帰ってきました。

彼が席に戻るなり
妻 「お医者さんですか。」
男性 「あっ、はい、小児科医です。」
妻 「ありがとうございました。」
男性 「それほど、役にたちませんでしたが。」
と控えめな返事が返って来ました。

騒然としていた車内も平常に戻り、安堵の空気が漂いはじめました。
「先ほどのお医者さまおられましたら、乗務員にお声がけください。」と車内アナウンスは何度も繰り返されます。

しかし隣の席の男性は黙々と食べかけの弁当を口に運ぶばかり。通り過ぎて行く乗務員たちには、なかなか医者の彼を見つけることがで来ません。
彼もそのまま名乗り出ることもなく、車窓には雪を頂いた富士がうす雲に見え隠れして、そして何もなかったかのように新幹線は走り続けていました。

亀村 俊二

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遠い記憶<大雪の日>



昭和30何年だったか、はっきりとした年はわかりませんが、その年の正月、京都に大雪が降りました。
朝起きると、子供の腰くらいのところまで雪が積もっていました。

突然、父は物置から古いスキー板を持ち出して来て短く寸法を揃えてのこぎりで切り始めたのです。
二本のスキー板をまたぐようにして箱を取り付け、子供がひとり乗れるそりを私と兄のために作ってくれたのでした。

私たちはうれしくて、近所の子供たちを誘って衣笠山の麓へそり遊びにでかけることにしました。父が作ったそりを引きながら、山へは家からまっすぐ西へ15分位で着きました。

急な山の斜面を何度も滑り降り楽しく遊んでいたのですが、、近所の子供たちはそのうち遊びに飽きて帰ってしまいました。残された兄と私は、それでもまだしばらくはそり遊びを続けていたのですが、とうとう、そりが壊れてしまい滑らなくなってしまいました。

ふたりでそりを持って帰ろうとしても、たっぷりと水を含んだ古いスキーと、板きれと化したりんご箱は重くて、子供の手にはおえないものになっていました。そして雪はしんしんと降り続け、日は傾きはじめ、私たち兄弟は父に作ってもらったそりのことで言い合いをしていました。

兄は、「お父ちゃんに怒られるからどうしても持って帰る」
弟の私は、「このままでは遭難してしまう。ここに置いて、早く帰ろう」と言い、けっして意見があいません。

結局、私がひとりで家まで帰り父に助けを求めることになりました。兄はそりの側で凍えながら身をかがめ、私は泣きながらまっ白い道を東へと歩き始めました。

しばらく歩くと、遠くに二人の大人の影を見つけました。あふれる涙越しに見つめた、そのだんだんと近づく影の映像をはっきりと記憶しています。私の真っ赤にはれあがった両手を、やわらかな毛糸の手袋でふんわりと握ってもらった肌触りはいまも忘れることができません。

そのふたつの影は、着物姿の父と、当時大学生だった親戚のお兄さんでありました。

亀村 俊二

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