人生の転機



1970年頃のことです。
私は当時、写真の好きな学生でした。
京都生まれ京都育ちだからという訳ではないのですが、なんとなくのんびりと京都の寺を被写体に写真を撮っていました。

ある日、夜明け前からカメラを持って家から歩いて30分ほどのところにある紫野・大徳寺に向かっていました。

大徳寺の塔頭のひとつ大仙院の門前を通り過ぎようとしたとき、一人の坊さんが竹箒で、まだ夜の明けきらない参道の砂利を、規則正しく掃き揃えている場面と遭遇、坊さんは作務衣姿にぞうり履き、頭には白い日本手ぬぐいをかぶり、それは絶好の被写体でした。

そっとカメラを向けシャッターを切ろうとした瞬間、私の次の行動を悟られてしまったのか
「おい・・・こんな朝から写真なんか撮って・・・」
「そのまえに、掃除や」
いったん山門の大きな扉の裏にまわった坊さんは、片手にもう一本の竹箒を持って足早にこちらへ飛んできました。

きょとんとしている私の顔前にそれは差し出されたのです。
私はその時の坊さんの素早い動きと、鋭く輝いた瞳を今も忘れることができません。
それから、どのようにしてその坊さんと一緒に参道を掃き清めたかはっきりと覚えていませんが、この出来事をきっかけに私は大徳寺・大仙院に足繁く通うようになりました。

お坊さんの名前は、尾関宗園。しばらくして知ったのですが、テレビやラジオにもよく出演し、また数多く書籍も執筆されている名物和尚さんだったのです。大仙院は拝観寺院でもあり、毎日大勢の拝観者で和尚さんはいつも忙しく寺内をとびまわっておられます。

私はそれでも月のうち幾度も大仙院を訪れ、そのうち庫裡にまで上がり込み、いつもおうすとお菓子をすすめられ、奥様や寺方さんとも親しく話をさせていただくようになりました。学生の身にもかかわらず、そんなひと時を過ごすことが好きでした。

禅の写真を撮りたいと無理を言ったこともありました。
和尚さんは未熟な写真小僧に対しても、本堂や廊下で禅を組み、「平常心」の被写体を与えていただき、私は何も恐れず夢中でシャッターを切りました。 そして出来上がった写真を和尚さんに渡し、褒めてもらうことが楽しみでした。

学生生活も終わりが近づき、そろそろ就職をしなくてはという時に、和尚さんに将来について話したことがあります。
「写真家になりたいのです。」
和尚さんは私の話しを熱心に聞き、「写真をやりたいのやったら写真家の先生を紹介しようか」
和尚さんの口から当時の日本の代表的な写真家の名前が次々とあがってきました。

その中に京都の写真家・浅野喜市先生の名前もがありました。
そのころ浅野先生は河原町の朝日会館で「嵯峨野」の写真展をされていて、私はその展覧会を見てひじょうに感動しておりました。

さっそく、わたしは浅野喜市先生に会わせていただくよう和尚さんにお願いしました。きっと電話か手紙で紹介されるものかと思っていましたが、和尚さんは私をつれて浅野先生のお宅まで同行していただき、そして「鞄持ちでもなんでもさせますから亀村に写真というものを教えてやってほしい」と私が言わなければならないことまで和尚さんに言わせてしまっていました。

こんなことがきっかけとなり、私は写真の世界へ入ることができたのです。
そして今、「ひとりの坊さんとの出会い」と「あの参道を掃除した」記憶はわたしの人生の転機において繰り返し表れる映像となっているのです。

亀村 俊二

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