月別アーカイブ: 1月 2011

父からもらった本



食卓の側の本棚を何気なく見ていると一冊の黄ばんだ背表紙が目に入って来ました。
確か15年程前、父がまだ元気だった頃この本を私にくれたのでした。
私は忙しさにかまけて読むこともしないでそれを本棚にしまい込んでいたのでした。

懐かしくなってページをめくりました。
驚いたことに、ところどころの頁にはキャラメルの包み紙を几帳面に畳んだ付箋が挟まれており そして重要な所には鉛筆で弱々しい線が引かれているではありませんか。
それを読むと父もある時期そうとう悩みながら生きて来たのだなあと思われました。

「男の更年期にあたる時期で、毎日がとてもしんどく感じられた頃・・・」
「男の惑いの季節・・・」

など、男の社会的活動の減速期に受けるショックにまつわるものでした。
ところが、この本が発行されたのは父が75歳の頃、とうに更年期は過ぎているころだったと思われます。
今までの人生と照らし合わせて、いろいろと考えていたのでしょうか。
当時、仕事に生活に危なっかしく見える息子をはげますためにこの一冊の本を託したのでしょう。

父が亡くなって10年、今頃になって気付かされる私でありました。
男の更年期まっただ中の今・・・

亀村 俊二

カテゴリー: photo essay | 父からもらった本 はコメントを受け付けていません

赤まんま



何時の頃からか玄関の側溝のコンクリートの隙間をぬって イヌタデ「赤まんま」という植物が生えてきました。 夏から秋にかけて赤い穂をつける可憐な雑草です。 その年もあちこちのコンクリートの隙間から芽が出始めました。

私はそれをもっと立派に育ててやろうと 土を買って来てしっかりと肥料も施しました。 しかし、数週間してもほとんど変わりなく 変わらないどころかだんだんと弱って来たので気がかりでありました。 季節も変わり雑草達も黄色く枯れ 私が入れたコンクリートの隙間の土も時とともに消えてしまいました。

ところが次の年、いつものようにいつもの隙間から 「赤まんま」は元気に芽を出しました。 そして夏にはコンクリートの表面を赤と緑のまるで絨毯のように染めてくれたのです。

「恵まれすぎたらあかんなあ」
この力強い「赤まんま」を見ていて、ふっと今の私達に置き換えるのでありました。

亀村 俊二

カテゴリー: photo essay | 赤まんま はコメントを受け付けていません

地震速報



先日、東京のホテルで宿泊していた時のことです。
朝の6時過ぎだったと思います。

枕元に置いた、携帯電話のけたたましいベルで驚いて目を覚ましました。買ったばかりの新しい携帯電話を覗き込むと「地震発生!、今から強い揺れが来ます。マグニチュード8」  正確には覚えていませんが確かこのようなメールが届きました。

「ええっ!マグニチュード8か!」
とうとう東京大地震が来るのか、とベッドの上で上半身を起こして身構えました。 ところが10秒たっても20秒たっても強い揺れは来ませんでした。 数分後、先ほどの地震速報は誤であったとテレビのニュースで流れました。

私はうろうろと部屋の中を歩きまわって興奮した心をしずめながら、地震速報があってからのわずかな時間自分はさて何をしていたのかと思い返しました。

すると身の安全を確保するための行動は何もしていません。
枕で頭を覆うこともなく、ただ今か今かとその時を待っていただけだったのです。 もっともホテルの一室で、周囲には倒れて来る恐れのあるものが何も無かった こともあるのですが・・・。

閉じ込められる恐れのあるドアは開けておいたほうがよかったかなと しばらくたってから思いついて反省しておりました。

最近の地震予報が進んでいるのにも驚かされますが なにも知らなくて持っていた携帯電話の緊急ベルにびっくりさせられた次第です。

亀村 俊二

カテゴリー: photo essay | 地震速報 はコメントを受け付けていません

脳内活性



二十代の頃
夕刻、仕事から帰ってくるとふろしき包みをさげた祖母が表通りに立っていました。
「おばあちゃん、どおしたん?」
「もうすぐお迎えが、来やはるし」
出かける時にはいつも髪を結っておしゃれな姿着の祖母が その時は、はっきりと違っておりました。
そのことがあってから祖母の痴ほう症状は少しずつ進んでゆきました。
夜、眠っていると襖が開き ふろしき包みをさげた祖母が枕元に立っています。
「お迎えが、来はったし行って来ますわ」
と言っていつも私を驚かせていました。
そんな頃、私達は結婚してその家に同居することになり
両親と祖母と私達の新しい生活が始まったのです。
程なく子供が生まれました。祖母にとってはひ孫です。
私の妻が「おばあちゃん、ちょっと、お守りしといてな」
といって、膝に赤ん坊をあずけると
祖母は嬉しそうにひ孫の守りをしてくれました。
私達は忘れていました。
数年前まであんなにいろいろあった痴ほう症(認知症)が
すっかり消え去っていたのを。
祖母はその後毎日、新聞を読める程に快復し
八十八歳まで楽しく暮らすことが出来ました。

もうすぐ、次男夫婦との同居が始まります。
今とは違った新しいあわただしい生活の刺激から
年齢は異なるものの、あの時の祖母のような「脳内活性」が
私達にも始まるようにと願うものです。

亀村 俊二

カテゴリー: photo essay | 脳内活性 はコメントを受け付けていません

本が返って来た



15年前、私が始めて写真の授業を担当した教え子から
連絡があり、我が家に遊びに来ることになりました。
彼女が卒業してから、久しぶりに会えるので私は朝からすべての用を済ませ今か今かと待っていました。
彼女は同級生をつれて3人で約束の時間に
やってきました。
コーヒーを飲みながらそれぞれに近況を語り合い懐かしい話で盛り上がっていました。
突然、なかの一人が、「先生それでは本題に入ります。」
と照れくさそうに、鞄から数冊の写真集を取り出したのです。
「これ、先生からお借りしてた本です。 」
「ずっと気になっていたのですが、今になってしまって」
「これを返すまで先生にあわす顔がないと、いつも思ってました。」
「すみませんでした。」
彼女は申し訳なさそうにあやまりました。
写真集を貸していたことさえ忘れていた私は 笑ってその本を受け取るとともに
彼女のほっとした視線を感じました。
こんなにうれしいことはありません。

彼女たちが帰って行った明くる日
15年もの長い間、借りっ放しになっていた本を勇気を出して
返しに来てくれた彼女のことを想い
誰にでもこんなことって、あるなあと想像したとき

そうです、自分にもある、いろいろと
世間に不義理してきたことが・・。

返って来た本を見つめながら
なんだか考えさせられる思いでありました。

亀村 俊二

カテゴリー: photo essay | 本が返って来た はコメントを受け付けていません

家族



東京の次男夫婦が仕事の都合で京都に移り住むことになりました。 息子からその話を聞いた時、どこに住むのかと尋ねてみました。 彼らは何のためらいもなく、私達と一緒に住むと言いました。 そんなに広くはない家なのですが親と同居すると言ってくれることは ありがたいことではあります。

一つの家に二家族が住むとなると 日々の生活すべてにおいて自由気ままにとはいきません。
しかし、よく考えてみるといろいろと利点も考えられます。
まず、この経済不況の中、別々に暮らすより一緒に暮らす方がより経済的効果が得られます。

そして、それにも増して良いことは、 私達が経験して来た社会生活の常識や工夫を若い夫婦に伝えることができます。
また、その逆で私達が若い世代から得るものも数多くあるでしょう。

核家族化が進みすぎた今、世の中はすさんだ世相となってしまいました。
せめて家族の中からでも「きずな」を大切にして、 それぞれ、人の気持ちを思いやる心を育むことが肝要ではないかと思います。

思い返せば、私達夫婦も若い頃、私の実家に大家族で暮らしておりました。
祖母と両親、私達と息子3人、そして同じ敷地内に母方の家族が暮らしていましたから
全員集まると12人です。
息子もそんな幼い頃のにぎやかに暮らした大家族生活を思い出し
「一緒に住もう」
と言い出したのだと感じております。

生活共同体としての「家族」
今の時代だからこそ見なおしてみるべきではないでしょうか。

亀村 俊二

カテゴリー: photo essay | 家族 はコメントを受け付けていません

ご先祖



27年前のことです。祖母が亡くなった後、親族が集まってこれで昔を知る人がいなくなったことが話題になり、それでは亀村のルーツを探しにゆこうということになりました。

先祖は京都の京極通り四条に饅頭やを営み明治の初めの本門佛立講の熱心な信者でありましたが、それ以前のルーツが私たちにはさっぱりわかりませんでした。ただ、兵庫県の奥佐津(城崎温泉から海岸方向に列車に乗って二つ目の駅)辺りから京都に出て来たらしいということは祖母から聞いていたのです。

私はまず電話局に行って兵庫県の電話帳を調べてみました。
佐津の電話帳には亀村姓が数多く並んでいるのを知って、これをたよりにそこへ行ってみれば何かがわかると確信したのでした。

ほどなく親族がいろいろな情報を持ち寄り兵庫県の奥佐津に行ったのです。
そこは山陰海岸から車で15分ほど山間に入ったところで、三方を山に囲まれた小さな村落でありました。私たちはまず村のはずれのお寺を訪れ、明治以前に京都に出て饅頭やになった者がいなかったかを尋ねてみました。

過去帳を調べてもらったのですが、その村のほとんどが亀村姓なのでなかなかこれといった手がかりは出て来ません。今度は村の一軒一軒を訪問してみることにしました。ところが運良く始めて出会った人に、そのむかし、村を後にした亀村の墓があることを教えてもらうことが出来たのです。

墓地は日あたりの良い山の斜面にありました。
そして私達の先祖をお祀りしてあるお墓はすぐに見つかりました。

禅宗の墓碑が並ぶ中、ただ一つだけ法華経の墓が京都のそれと同じ様相で立っていたのです。百年もの時が経っているのでさぞかし荒れているだろうと想像してたのですが、周囲には雑草もそれほど茂ってなく、墓石も古いものではありますがまだまだしっかりとしておりました。 それにしても、明治の時代にこの山奥の地でお墓を立て替えられたであろうご先祖にはまことに感心させられました。

その出来事があってから代々この墓を守っていただいた村の人たちとご先祖に感謝しながら毎年お墓参りをさせていただくようになったのであります。

亀村 俊二

カテゴリー: photo essay | ご先祖 はコメントを受け付けていません

’10 写真と映像展「心の池」深泥池の記憶
京都精華大学 ギャラリーフロール

写真と映像「心の池」は6月19日をもちまして無事終了する事が出来ました。
たくさんの方に観ていただきましたこと大変うれしく思います。ありがとうございました。
ハイビジョン映像
キャノン5DMarkIIを使用
プロジェクターはフルハイビジョンWU10MarkIIを キャノンさんよりご協力いただき
左右6mの大画面で発表いたしました。極、鮮明な画像で表現出来ましたこと喜んでおります。
かめむらしゅんじ




カテゴリー: EXHIBITION | ’10 写真と映像展「心の池」深泥池の記憶
京都精華大学 ギャラリーフロール は
コメントを受け付けていません

’07 個展 「 家の顔 」ギャラリーTerra

カテゴリー: EXHIBITION | ’07 個展 「 家の顔 」ギャラリーTerra はコメントを受け付けていません

’03 個展「日本のこころ-Deep Heart」同時代ギャラリー

カテゴリー: EXHIBITION | ’03 個展「日本のこころ-Deep Heart」同時代ギャラリー はコメントを受け付けていません