カテゴリー別アーカイブ: photo essay

遠い記憶<大雪の日>



昭和30何年だったか、はっきりとした年はわかりませんが、その年の正月、京都に大雪が降りました。
朝起きると、子供の腰くらいのところまで雪が積もっていました。

突然、父は物置から古いスキー板を持ち出して来て短く寸法を揃えてのこぎりで切り始めたのです。
二本のスキー板をまたぐようにして箱を取り付け、子供がひとり乗れるそりを私と兄のために作ってくれたのでした。

私たちはうれしくて、近所の子供たちを誘って衣笠山の麓へそり遊びにでかけることにしました。父が作ったそりを引きながら、山へは家からまっすぐ西へ15分位で着きました。

急な山の斜面を何度も滑り降り楽しく遊んでいたのですが、、近所の子供たちはそのうち遊びに飽きて帰ってしまいました。残された兄と私は、それでもまだしばらくはそり遊びを続けていたのですが、とうとう、そりが壊れてしまい滑らなくなってしまいました。

ふたりでそりを持って帰ろうとしても、たっぷりと水を含んだ古いスキーと、板きれと化したりんご箱は重くて、子供の手にはおえないものになっていました。そして雪はしんしんと降り続け、日は傾きはじめ、私たち兄弟は父に作ってもらったそりのことで言い合いをしていました。

兄は、「お父ちゃんに怒られるからどうしても持って帰る」
弟の私は、「このままでは遭難してしまう。ここに置いて、早く帰ろう」と言い、けっして意見があいません。

結局、私がひとりで家まで帰り父に助けを求めることになりました。兄はそりの側で凍えながら身をかがめ、私は泣きながらまっ白い道を東へと歩き始めました。

しばらく歩くと、遠くに二人の大人の影を見つけました。あふれる涙越しに見つめた、そのだんだんと近づく影の映像をはっきりと記憶しています。私の真っ赤にはれあがった両手を、やわらかな毛糸の手袋でふんわりと握ってもらった肌触りはいまも忘れることができません。

そのふたつの影は、着物姿の父と、当時大学生だった親戚のお兄さんでありました。

亀村 俊二

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遠い記憶<森の向こう>



私は幼い頃身体が弱く、母がわたしの健康を気遣ったのか、少し疲れた様子をみせるとけっして戸外で遊ぶことをゆるしませんでした。

家の裏庭は神社の森と接し、古びた塀で隔たっていました。波形のトタン塀はみどりのペンキで塗られ、褐色の錆びでおおわれていました。

森の向こうは町内のあそび場となり、そこで三角ベースや、ドッジボール、ビー玉、面子(めんこ)、肉弾や胴馬など、高学年のお兄さんから小さな子供たちまでが一緒になって毎日遊んでいました。
ボールの跳ねる音、森の奥深くまで転がった球を探し廻る聲、そんな楽しそうに騒ぐ友たちの様子がつたわってきます。

私といえばいつものように外出禁止、飼い犬のように裏庭をうろうろとする日が続いたある日、とうとう我慢出来ず子供の背丈では届きそうにもない高い塀の向こうをのぞくことにしたのです。

庭の隅に散乱している廃材を塀に添って積み上げ足場を作りました。
その不安定な足場の上に乗りトタン塀の上部に両手を掛け、グッと背伸びをしました。
すると、森の向こうの様子がほんの一瞬垣間見えたかに思えたその瞬間、掌に走ったにぶい痛みはいまも忘れません。

今、私の左の掌にある大きな波形の傷跡をみつめる時、おさな友達の顔やもっと自由に遊びたかった想いなどが走馬灯のように思いだされるのです。

亀村 俊二

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再々会 



従弟から一つの腕時計を見せられました。
三十数年前私から貰ったというクロームメッキでシンプルなデザイン。

その腕時計を見た瞬間、懐かしいおもいがわいてきました。中学進学の記念として父に買ってもらったものだったのです。セイコーの17石、手巻き腕時計、確か当時2800円だったこともよく覚えています。
私はそれを彼に譲ったことなどすっかり忘れていました。

おもえば、この腕時計と再会するのはこれが始めてではありません。

それは中学三年生のことです。
そのころ校則で禁止されている腕時計を、私も隠し持って学校へ行っていました。授業中、後ろの席の同級生にせがまれ、そっと見せただけの腕時計が返ってこなくなりました。何度か返すようにと彼に言ったのですが、返事は「しらない」のいってんばり。当時の公立中学では、こういうことやけんかなどはそれほどめずらしいことではありませんでした。私はどういうわけかこの出来事にはあまり動じず、そのうちに返ってくるだろうとしばらく構えていました。

一ヶ月ほどが過ぎたある日、突然、私の家の玄関先にあの同級生が立っていたのです。そして、私に申し訳なさそうに腕時計を差し出し、素直にあやまってきました。

がっしりした体格でやんちゃな彼が、今日にかぎってみょうに大人しかったこと。そして、そのときの同級生に何があったのか。それは未だに想像もできない不思議な出来事でした。

再々会できたセイコーの腕時計は、文字盤のガラスも皮ベルトも新しいものに替えられ、ピカピカ光って幸せそうに時を刻んでいます。

亀村 俊二

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現代・東京物語



先日、私と妻は東京で暮らす三人の息子と久しぶりに食事でもしようと思い立ち、二泊三日の旅行にでかけました。

あいにく息子たち三人の時間があわず、一人ずつ順番に逢うことになりました。彼らはそれぞれ、おすすめのギャラリーをおしえてくれたりめずらしい料理店へつれて行ってくれたりと、忙しい中、時間をさいてつきあってくれました。

歩く時はかばんを持ってくれるし(手を引くところまではいきませんが)、仕事のことや写真のこと、いろいろとゆっくり話しができて楽しかったのですが、息子たちに案内されるままの歩きと、人込みと地下鉄の階段の多さに疲れきって帰ってきました。

その昔見た映画・小津安二郎監督「東京物語」。笠智衆・東山千恵子演ずる年老いた夫婦が、東京に住む子供たちを訪ねる・・・もの悲しい物語。

実際の私たちは、老夫婦でもなければもの悲しくもないのですが、ふっと映画のひとコマと重なり合って思い浮かべていました。
そのことを妻に言うと、「私も一緒!」とおもわず共感した次第です。

亀村 俊二

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「一言」



先日こんな経験をしました。

京都の町家が並ぶ幅狭い通りをゆっくりと車を運転していました。前方には外国人の女性がふたり、大きな旅行バッグを転がして歩いています。傍にはガイドでしょうか、日本人の女性が同行していました。

ふっと見ると、大きなバッグの上に積まれたおみやげらしき物がころげ落ちました。彼女たちはなにも気付かず歩いていきます。
私は車のクラクションを小さくならし、振り返った三人に落ちた荷物を指差してそのことを知らせました。日本人の女性があわてて引き返し、それを拾って、こちらを見ることもなくまたもとの二人と並んで歩き始めました。

私は、「なんと礼儀のない人間やなあ、ちょっとくらい挨拶してもいいのに」と感じた次の瞬間、二人の外国人女性たちがこちらを振り返り手を振って、美しい笑顔で会釈してくれました。
そのことで気を良くした私でしたが、こちらに何の反応も示さない日本人女性の態度が許せない複雑な思いが残ってしまいました。

そんなことがあってから数日後、京都駅でのことです。
大勢の人々の中、新幹線に乗車するため私も列に並んでいました。
そこへあわてて走ってきた一人の女性が列の隙間をすり抜けようとして、ジュースを持って並んでいた別の女性と接触、その手に持たれたジュースを飛ばしてしまったのです。

オレンジ色の液体と細かい氷が紙コップとともに空中に舞い、ホームに散乱しました。あわてて走り抜けた女性は、自分が起こしてしまったことに気付いたのでしょう。数メートル走った後、振り返ってはみたものの、「無言」で、ただただ当事者たちのにらみ合いが続くばかり、衆人は緊張に包まれました。

そして結果、一人の女性は踵を返し走り去ってしまい、残された女性は紙コップを拾い始めたのです。
「ああ、一言ほしかった・・・・。」
現在の日本人のこんな部分を見てしまった情けない瞬間でした。

亀村 俊二

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ちょっと、お寺で一休み



もうずいぶん以前の話になります。妻は学校に勤め、私はフリーのカメラマンで月のうち何日かは撮影の依頼もなく、そんな時は写真の被写体をさがして京都近辺をあちこち車で走ることが常でした。

京都を南に下がって行くと、いつもお参りさせていただくお寺があります。伏見の妙福寺です。

その日もカメラを持って走り回っていましたが、ちょっと、妙福寺さんでひと休み、お寺でひと休みとは、ばちがあたりますが、本堂にごあいさつを終えてから庫裡へ向かいます。

当時、庫裡には御住職が居られ側にはいつもかおる奥様がついておられました。
私が訪れるとご信心の話、仕事の話、家族の話、楽しいことや困ったこと、いろいろ聞いていただき、教えていただけます。こころも身体もひと休みの後は、背中を押されるようにまたもとの仕事に戻って行くのです。

いつものように御住職、奥様との話を終え「ありがとうございました。それでは」と、立ち上がったのですが、かおる奥様が私の足下を見つめて、
「あんた、靴下、大きな穴あけて、えみちゃん(私の妻)なにしてんの」
「ちょっと待ってよし」と言って奥からまだ包装紙に包まれたままの靴下のケース箱を持ってこられました。

「これにお履替え」
かおる奥様のお人柄からくるものでしょうか、 靴下の大きな穴を見つけられても恥ずかしい思いをすることもなく、妙に素直に、その中の気に入った靴下を一足取り出していました。
そしてその場で履き替えることになったのです。

「これ、みんな、持ってお帰り」
私は何足かの靴下をもらって、まるでやさしい母に叱られるような、そんなうれしい気持ちでお寺を後にしたことを記憶しております。

亀村 俊二

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人生の転機



1970年頃のことです。
私は当時、写真の好きな学生でした。
京都生まれ京都育ちだからという訳ではないのですが、なんとなくのんびりと京都の寺を被写体に写真を撮っていました。

ある日、夜明け前からカメラを持って家から歩いて30分ほどのところにある紫野・大徳寺に向かっていました。

大徳寺の塔頭のひとつ大仙院の門前を通り過ぎようとしたとき、一人の坊さんが竹箒で、まだ夜の明けきらない参道の砂利を、規則正しく掃き揃えている場面と遭遇、坊さんは作務衣姿にぞうり履き、頭には白い日本手ぬぐいをかぶり、それは絶好の被写体でした。

そっとカメラを向けシャッターを切ろうとした瞬間、私の次の行動を悟られてしまったのか
「おい・・・こんな朝から写真なんか撮って・・・」
「そのまえに、掃除や」
いったん山門の大きな扉の裏にまわった坊さんは、片手にもう一本の竹箒を持って足早にこちらへ飛んできました。

きょとんとしている私の顔前にそれは差し出されたのです。
私はその時の坊さんの素早い動きと、鋭く輝いた瞳を今も忘れることができません。
それから、どのようにしてその坊さんと一緒に参道を掃き清めたかはっきりと覚えていませんが、この出来事をきっかけに私は大徳寺・大仙院に足繁く通うようになりました。

お坊さんの名前は、尾関宗園。しばらくして知ったのですが、テレビやラジオにもよく出演し、また数多く書籍も執筆されている名物和尚さんだったのです。大仙院は拝観寺院でもあり、毎日大勢の拝観者で和尚さんはいつも忙しく寺内をとびまわっておられます。

私はそれでも月のうち幾度も大仙院を訪れ、そのうち庫裡にまで上がり込み、いつもおうすとお菓子をすすめられ、奥様や寺方さんとも親しく話をさせていただくようになりました。学生の身にもかかわらず、そんなひと時を過ごすことが好きでした。

禅の写真を撮りたいと無理を言ったこともありました。
和尚さんは未熟な写真小僧に対しても、本堂や廊下で禅を組み、「平常心」の被写体を与えていただき、私は何も恐れず夢中でシャッターを切りました。 そして出来上がった写真を和尚さんに渡し、褒めてもらうことが楽しみでした。

学生生活も終わりが近づき、そろそろ就職をしなくてはという時に、和尚さんに将来について話したことがあります。
「写真家になりたいのです。」
和尚さんは私の話しを熱心に聞き、「写真をやりたいのやったら写真家の先生を紹介しようか」
和尚さんの口から当時の日本の代表的な写真家の名前が次々とあがってきました。

その中に京都の写真家・浅野喜市先生の名前もがありました。
そのころ浅野先生は河原町の朝日会館で「嵯峨野」の写真展をされていて、私はその展覧会を見てひじょうに感動しておりました。

さっそく、わたしは浅野喜市先生に会わせていただくよう和尚さんにお願いしました。きっと電話か手紙で紹介されるものかと思っていましたが、和尚さんは私をつれて浅野先生のお宅まで同行していただき、そして「鞄持ちでもなんでもさせますから亀村に写真というものを教えてやってほしい」と私が言わなければならないことまで和尚さんに言わせてしまっていました。

こんなことがきっかけとなり、私は写真の世界へ入ることができたのです。
そして今、「ひとりの坊さんとの出会い」と「あの参道を掃除した」記憶はわたしの人生の転機において繰り返し表れる映像となっているのです。

亀村 俊二

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父から習った写真



中学生のころ、父から「写真の撮り方」を習ったことがあります。

シャッタースピードと絞りの関係のこと、ピントのあわせ位置、カメラの構え方は、「両足を肩幅に開き、脇をしめ、」「左の掌にカメラを軽く乗せ、右手は添えるように、」「人差し指の先端で真上からシャッターボタンをそっと押す。」「その瞬間は軽く息を止めて、」などです。

今、私は京都精華大学の写真の授業で、この「ブレのない、シャープな写真の撮り方」をいちばんに教えることにしています。
父から習ったことを懐かしく思い出しながら・・・・。

その時、学生たちは私の実演するカメラの扱いに目を輝かせて乗ってきます。
そしていつも、私は父の言葉をそのままに繰り返している自分の姿に気づくのです。

亀村 俊二

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中高年の登山



妻と友人の三人で一泊旅行にでかけました。

三重県紀伊長島、魚料理と温泉でのんびりとした旅、初日はあいにくの雨でしたが、次の日は快晴となり、私は早朝から、宿の前に広がる砂浜の写真を撮って歩きました。

宿に戻って朝食をすませ、今日は何処へ行こうかと三人で計画、ロビーのポスターを見て、近くに世界遺産で有名な「熊野古道」があるのを知り、見に行くことにしました。

私たちは軽装で、そして家からつれて来た犬も車に待たせていたものですから、ほんのさわりの「深い自然と連なる石の山道」の風景に出会えれば折り返すことにしました。

大きな石を踏みしめ、登り始めた山道は大変にきつく私たちはゆっくりと進みました。いくらか登ると、下の方からざわざわと大勢の話声が聞こえだしました。振り返るとまだ姿は見えませんが、確かにそのざわめきはどんどん近づいて来ます。

そして、いつのまにか20人ほどのグループに取り囲まれたかとおもうと、彼らの足取りは軽く、あっという間に山の奥へと消えて行きました。

私は彼らにいっきに追い越されてしまった自分の体力の無さに大変なショックを受けたのですが、その彼らが私の歳をはるかに超える初老の登山グループであったことが、未だに忘れることができません。

亀村 俊二

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遠い記憶(サンライズパン)



昭和30年頃です。
私の家の裏の神社の角を曲がるとバス停があり、その前に小さなパン屋がありました。
私は祖母から5円玉を一つもらって、いつもは別の方向にある駄菓子屋へおやつを買いに走るのですが、その日に限って10円貰って、私はバス停前のパン屋に向かって走っていました。

確か晩ご飯までには少し時間がありました。
よほどお腹がすいていたのか10円貰って嬉しかったのか、いつもはそこで森永のキャラメルを買うことに決めていたのですが、その日はパンを買ってしまいました。

サンライズパン(現在のメロンパン)を買って店から出ると、バス停にバスが止まりました。
なにげなくバスから降りる人々を眺めていると、いつも夜遅く帰宅するはずの父が、早く仕事を終えたのか、そのバスから降りてきたのです。

私はとっさに今買ったサンライズパンを体の後ろに隠し、父を迎えていました。食事前にパンを食べて叱られることを恐れたのではなく、腹を空かせて仕事から帰って来た父に、子供心に申し訳なくて今買ったパンを見せることができなかったのです。

たぶん私が両手を後ろにまわしなにかを隠し持っていたことを、父は知っていたと思います。
前後することもなく並んで家まで歩く少年と父、後ろに廻った小さな手にはサンライズパン。

そんなけっして自分では見ることのない背後からの映像を、私は何故かはっきりと記憶しているのです。
しかし家に帰ってからの、あのパンがどうなったのか残念ながら思い出せないままなのです。

亀村 俊二

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