月別アーカイブ: 1月 2011

ごろせ川 Ⅱ



小学生の頃、私の家には数匹の猫がいました。
いつも庭の大きな樫の木の二股でじゃれ合ったり昼寝をしたり
ところが毎年のように春ともなると子猫が産まれるのです。
今では考えられないことなのですが、当時の世間では子猫が産まれて貰い手がないと
段ボール箱にいれて人目に付く場所にこっそりと置いておくか
産まれたてのそれを川に流してしまうかどちらかであったようです。

私の家も子猫が産まれると母は困っていました。
そして、夜になると母はそれをもって何処かへ出てゆくのです。
朝になると子猫は何処にもいません。
ただ、母猫が子猫を探してニャーニャーとないているだけでした。

またいつものように、子猫が産まれた夜のことです。
母が私を呼びました。
「俊ちゃん、猫、捨てて来てえな」
私は母の言うことを素直に聞く子供でしたがこのときばかりは
「いやや」と素直に聞くことが出来ませんでした。

何度も懇願する母に根負けして、とうとう首を縦に振って
「うん」と言ってしまった私は、母の次のことばに耳を疑いました。
「ごろせ川に、捨てて来てくれたらええのや」
四、五匹の子猫は包まれた新聞紙の内側から柔らかな爪音をたてて
ミャーミャーとないています。

私は遠くに灯る電柱の明かりをたよりにごろせ川まで暗い道を歩いてゆくのです。
そしてザーっと音をたてて流れる暗闇の川に投げ入れたのです。
その包みは暗渠となった川にすいこまれてゆきました。

今になってもふっとした折りに、「ごろせ川」でのあのことが思い出されます。
そしてそのとき、小さな声で何度も

「お題目」をお唱えする私なのです。

亀村 俊二

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ごろせ川



小学二年生の頃の話です。

私が通っていた宮敷分校の側には「ごろせ川」と呼ばれる汚れた小さな川が とろとろと流れていました。やんちゃで少しきつね顔をしたAくんは放課後よくその川で魚捕りをして遊んでいました。

私はAくんにどんな魚が捕れるのかたずねてみました。

「ナマズや。大きいナマズが捕れるでえ」目を輝かせて真剣に彼は言いました。
「これくらいのが」と彼は両手を広げて見せました。
どうやって捕るのかと尋ねると「釘や。くぎを釣り針みたいに曲げてそれにひもをむすんで」「川に沈めといたら、すぐに釣れるわ」

私は家に帰って兄にそのことを話しました。
兄は私の話を信じませんでしたが私があまりにも夢中になってねだるものですから 釘を持って来て、金槌でたたき始めました。
不格好に曲がった釘がひも先についた仕掛けが出来上がり私は急いでそれをごろせ川へ沈めにゆきました。割り箸を折って結んだ浮きはいつまで待っても沈みません。

だいぶたって、私はふっと、もしかしてAくんにだまされたのではと思い始めました。

「こんなんでナマズが釣れるはずがない」

その時、網を持ったAくんと数人の上級生が川上からザブザブとしぶきをたてて 現われました。
そして川岸にしゃがみこんでる私を見つけるなり「わあー、あほやー、こんなんで釣れるはずないやろ」と、仲間と一緒に囃し立てて笑ったのです。
そんなことすら解らなかった私はその時 顔から火の出るくらい恥ずかしい思いをしたのをはっきりと覚えています。

Aくんが何故あんなに真剣な目をして私を騙したのか、そしてまた、からかったのか私はAくんのことが分からなくなり次の日から彼と話をあまりしなくなりました。 それは子供同士の遊びだったのでしょうか。

そのことがあってから彼はまもなく宮敷分校からどこかの町へ転校してゆきました。

亀村 俊二

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飄々と・・



先日、友人がうちのギャラリーカフェに来て 妻の煎れるコーヒーを楽しみながらこんなことを言って帰りました。

「ここは、ええなあ、何時ものんびりしていて明るくて」
「何の悩みも感じられへんし」 「かめさんも(私のこと)飄々と暮らしてて」 「ここへ来たら、癒されるわ・・・」

私と妻は、友人が残していったその言葉に此の上なく勇気づけられました。

私たちも世間と同じように時間に追われながら時として心にゆとりなく暮らしているはずなのですが・・・ 彼の目には『悩みもなく飄々と生きている』ように映ったのですね。

亀村 俊二

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「養生の実技」より



五木寛之の「養生の実技」を昨年読みました。
その本には、作家五木寛之が彼なりに身体に良いことを 実行していることが書かれています。

もののたとえで、彼はこういうことを言っています。 「うなぎ」はぬるぬるとしていますが それを、タオルできれいに拭き取ればすぐに死んでしまいます。
人間の場合も同じで、皮膚の脂を石けんで取りすぎると あまり良くないようです。
私は、五木さんの考えになんとなく納得してすぐに実行に移しました。

それまで、毎日お風呂に入ってシャンプーをしてたのですがその日から、石けんで頭を洗うことを止めました。 シャワーでよくすすぐだけの洗髪にしたのです。 数日は「かゆくて困るかなあ」と心配していましたがところが何日たっても私の頭頂部の薄くなった丸刈り頭は かゆくなったりはしなかったのです。

あれから一年と数ヶ月が過ぎました。

私だけの気のせいでしょうか
丸刈り頭のてっぺんに新しい髪が生えて来たような感じもする最近ですが・・・・。
心当たりのある方はいちど実行されてみてはいかがなものでしょうか?

亀村 俊二

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空振りの連続



私は子供の頃から球技が苦手で、いつも近所の子供たちから相手にされない子供でした。

小学校低学年のころ近所の草むらで三角ベースが始まりました。 身体も弱く、人いちばい野球もへたなのですが 、その日にかぎって人数合わせで誘ってもらいました。

私は野球に加えてもらわなくてもよかったのですが、何度も誘われるのでしかたなく仲に入りました。三角ベースは少人数でする野球なのですぐにバッターの順番が回って来ます。 ほどなく私の番がきました。

ピッチャーの投げたボールは私の予想どおり弱々しく振ったバットからは ほど遠いところを通過していきました。あとの2球もそのまま私の前を通り抜け、あえなく三振となってしまいました。

「ああやっぱり三振か」皆のニヤッと笑う顔が私の目に飛び込んで来ました。
次の番もその次も三振は止まりません。 周りの者たちが、私のいくじのなさにしびれを切らして
「バットを短くもって」「もっとボールをよく見て」「脇をしめて」「あごを引いて」 あきれたように特訓をしてくれるのですが私の空振りは焦れば焦るほど止まりません。

私は顔から火の出るほど恥ずかしい思いをしながらバットを振り続けました。

結局、夕方まで振り続けたバットには一度もボールはあたらなかったのです。
複雑なこころで家路についた想いは今も忘れません。 以来、こういった私の弱々しい面はふだんの生活や仕事にも時として現われます。 そして、そのような時、いつもあのどうにもならない空振りのくりかえしの場面が想い出されて来るのです。

亀村 俊二

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父の臨終



私の父は晩年胸の病で入退院を繰り返していたのですが 6年前の春の入院が最後でした。
当時、私は仕事が忙しく出張撮影に妻とともにあちこちと出かけ不規則な生活をつづけていました。父の入院した病院は幸いにも私の家の近くだったので 京都にいるときは朝に必ず病院へ行って父と会っていました。

父は薬の効かない胸の病と高齢ということもあって日に日に弱ってゆきました。 ある時、院長先生が私たちにレントゲンフィルムを見せて病状を説明されました。

「お父さんの肺は20%も機能していませんね」

確かにレントゲンで見ると父の左右の肺はほとんど形をなしていません。 心臓といえば空気の抜けたヨウヨウ玉のように細く長く写っているではありませんか。

「先生、本人はしんどいですか?」
「いや、脳に酸素がいきわたってないので、あまり感じられてないでしょう」

私たちは院長先生のその言葉を聞いて少し安心しました。 父は目尻に涙をためながら何か言いたげに合図をおくります。 私と妻は父の口元に耳を近づけ、か細い声を聞くのですが あるとき、はっきりと父の言葉が聞き取れたのです。

「はよ、死なしてえな」

私たちは父のその言葉を聞いてしまって、涙しました。 涙して、そして父の耳元で言いました。
「お題目唱えたらええねん」 「お題目お唱えしたら・・・」

父はそのことがあってから数日後に死にました。
私と妻が朝早く父に会って「待っててや、撮影に行ってくるしな」 といって出かけた後のことでした。 私は父の言葉を聞いてしまったあの時、少しでも長生きしてほしかったのか、またそうでなかったのか、矛盾するこころの決断を、今も後悔はしておりません。

父の七回忌にあたり、ふっと想い起こすこころの中の出来事でした。

亀村 俊二

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息子の結婚

この春の次男の結婚披露宴でのことです。

次男・佳宏と麻美さんがふたりで工夫を凝らした レストランでの披露宴はたいへんなごやかに進んでおりました。

私は両家を代表してお礼の挨拶をすることになっていたのですが、挨拶の途中感極まって涙してしまわないか心配しながらも宴はお開きに近づいていきました。

おいしい料理やお酒、楽しいひとときのおかげで、涙のことなどすっかり忘れてしまった私は心配するほどのこともなく挨拶をすませることができたのです。

次に新郎の挨拶が始まりました。
ところが、最初の一言はよかったのですが次の言葉が出て来ません。 あまりにも長い沈黙が続くのでそっと佳宏の顔を覗いてみるとうつむいた彼の目もとには感激の涙があふれていたのです。
沈黙は続きます・・・。

誰もが諦めかけたその時、お礼の挨拶のつづきが始まりました。

夫にかわって、妻になったばかりの麻美さんのそのあいさつは 佳宏が忙しい仕事の合間を縫ってすすんで結婚式の準備に追われてくれたことなど夫への労いの言葉と 参列の皆様への感謝の気持ちが二人からのメッセージとしてしっかりと綴られておりました。

宴もことなく終わってほっとした私たち夫婦に先方のご両親が恐縮されるばかりです。
「もうしわけございません。」「麻美が、挨拶なんかしてしまって・・・」

実を言うと、私も肝心な時には妻に助けてもらってきた人生。
「ああ、良かった、良かった、奥さんがしっかりしていてくれて」とお嫁さんにこころより感謝するばかりなのでした。

亀村 俊二

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うれしい出来ごと



昨年、私が教える芸術大学の卒業生から突然電話がありました。 電話口の声で彼女の名前と顔をすぐにはっきりと思い浮かべることができました。

彼女は6年前に卒業して現在、大阪のデザイン事務所に勤務しています。 久しぶりの電話の内容は、私が撮った「京都の写真」でカレンダーの企画をしたいとのことでした。

企業のカレンダーにはコンペがあって、そこからひとつ選ばれるのですが 、 「デザイン」と「写真」が一つになって始めてよいものが生まれます。 正直言って、私の写真は毎年カレンダーのコンペには出るのですが 、 ここ何年間は選ばれることはありませんでした。

早速、数千枚の写真を選び持ち帰った彼女は、一ヶ月ほどして、そのうちの200枚もの写真をうまく散らして錦絵のようなデザインをあげてきてくれたのです。 彼女の時間を惜しまない努力と仕事に対する愛情が一目見て伝わってきました。 すばらしいカレンダーに仕上がっています。
そしてカレンダーは細部の修正を終えコンペに出されました。

程なく彼女から電話がありました。
「ありがとうございました。企画・・通りました。」と、うれしい声。

私もその声を聞いて、大きな仕事を終えた充実感を彼女とともに感じていました。

28歳の女性と57歳のおじさんとのコラボレーションなのですが 、私にとっては教え子から若い力をもらったようなそんな気持ちで、本当にうれしい出来ごとでした。

亀村 俊二

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