生八つ橋



昭和30年頃、母は京都の新京極通り四条を少し上がった(北に行った)ところでタバコ屋を営んでおりました。
昼間は祖母が、夕方から夜にかけては母が店番をすることになっていました。私はいつも祖母と夜を過していたのですが、時には私をつれてタバコ売りをすることがありました。

当時、新京極通りは京都随一の歓楽街で夜遅くまで人通りが途絶えることはありませんでした。
郊外に生まれ育った私にとっては夢のように光り輝くまぶしい街でした。ガラスのショーケースには「ピース」「光」「しんせい」「パール」に「ゴールデンバット」色とりどりのタバコの箱が隙間なく並んでいます。ぶらぶら歩く通行人の中には、母のいるタバコ屋を見つけてはこちらに近寄って来くる者がいます。

母はガラスのちいさな窓越しに慣れた手つきで次々とタバコを売り、私はカウンターの下の十円や五円玉を揃えては並べ、母の側を離れることはありませんでした。
ところが、奥の店に勤める女性が私を見つけるといつも「八つ橋、買うて来て」「まだ焼いてないのやで」と言って小銭をもたせるのです。

私は大人達がそぞろ歩く夜の新京極通り、ペンキで描いた「映画館の看板絵」、大きな水槽にうなぎを泳がせた「ウナギ釣り」、並んだ人形をコルク玉の銃で落とす「射的」など怖々ながらあちこち覗き歩いてから、八つ橋を買いに行くのです。

八つ橋は店頭で実演して焼かれ、辺りには香ばしいかおりが漂っています。
私はこれから焼かれようとする薄ちゃ色で半透明なものを指差して「まだ、焼いてへんのん、ちょうだい」と言います。店員は少し不満気な顔をするのですが、私が差し出した小銭分の「焼いていないやわらかな八つ橋」を持たせてくれるのです。

子供の頃、八つ橋といえば褐色になるまで堅く焼かれ、噛むと口の中でガラスが割れるような感じがしてあまり好んで食べることはなかったのですが、あのやわらかくて甘いニッキの香を頬張った途端、好きなってしまったことは今も忘れません。

何時の頃からでしょうか。京都名物「生八つ橋」というものが生まれたのは。
「生八つ橋」を口にするといつも思い出します。

あの頃の「ネオンに浮かぶ夜の新京極通り」そして「タバコ屋の母」のことを。

亀村 俊二

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ネス湖の思い出



ネス湖のネッシー伝説がまだ信じられていた頃、1977年にイギリスのスコットランド地方にあるネス湖へ旅をしました。
ロンドンから機関車とバスを乗り継ぎ2日間かかってネス湖の起点の街インバネスに着いたのは午後の3時をすぎていました。
早めにツーリスト案内で今夜のBB(ベッド・アンド・ブレックファースト)民宿を予約してすぐにそちらに向かいました。

BBは三角屋根の可愛らしい家で庭の芝生と赤いバラのコントラストが魅力的でした。
ベルを押すと中からお婆さんが出て来て、この家の住人が居ないので後で来るようにと言われ、とりあえずバッグを置かせてもらって、カメラひとつ持ってインバネスの街を散策しました。

ひととおり街を撮り終えてBBへ帰ってくると、こんどは先とは別のお婆さんが出て来て、また、この家のものが居ないと言うのです。私は今晩の宿泊予約をしていることを片言の英語でなんとか伝え無理を押して部屋へ案内してもらうことにしました。

そして、二階の奥の部屋へ入るなりその様子に驚かされました。壁はピンク色の細かい花柄で金色の曲線の飾り金具の付いたベッドも可愛い花柄でトイレもバスも壁の楕円形の大きな鏡や照明まで金色とピンクで揃えられていたのです。

私は、明朝早くからバスでネス湖に行く計画だったので、風呂に入ってすぐに寝ることにしました。
ベッドで横にはなるものの、私が会ったのはふたりのお婆さんだけでこの家の住人がいないこと、そしてあまりにも奇麗すぎる女性の部屋で自分が眠ろうとしていること、あまい香水のかおりなどが気になってなかなか眠りつくことができませんでした。

もしかして、とんでもない所に迷い込んだのでは・・・部屋の明かりも消せずにうとうとし始めた頃、ドアをたたく音で起こされました。ゆっくりと立ち上がって少しドアを開けると、またまたお婆さんが立っています。先の二人とは別人の・・・その三人目のお婆さんから「居間でお茶にしましょう。」と誘われたのです。

時計を見ると午後9時。
あわてて衣類を身につけ誘われるまま、狭い階段を恐る恐る降りて行きました。
はて、自分はこれから何人のお婆さんと遭えばよいのか・・・。

悩みが解決したのは、居間のソファーに腰をかけてまもなくでした。
三人目に会ったお婆さんが紅茶を入れながら「さあ、それでは皆さん自己紹介してください」宿泊客は私と長期滞在のカナダ人老女、オーストラリア人老女、そしてドイツ人青年の4人それぞれ気ままな一人旅だったのです。
その茶話会が終わってから、あの甘いかおりの部屋で安心してぐっすり眠れたのは言うまでもありません。

亀村 俊二

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遠い記憶 <家>



私は小学生の頃、今から思えば以外なほど積極的で、男女をとわずクラスのほとんどの生徒の「家」へ遊びに行っているような子供でした。
4年生のある日の学校帰り、同級生のO君と意気投合して遊ぶうち、彼は小さな声で「家に来いひん?」と僕を誘いました。
O君は色白で鼻から頬にかけてのそばかすが愛嬌の小柄でおとなしい生徒でした。

僕は彼の「家」へ行くのは始めてです。
おおきな橋を渡りきると彼は急いで橋のたもとの急な階段を降りてゆきます。
僕も後を追って降りて行ったのですが、彼の「家」はその橋の下で、古い板を集めて作っただけの小屋だったのです。それを見た僕は、はっとしましたが、誘われるままその小屋の中に入りました。
そしてO君は彼の家族のことなど真剣なまなざしで話しをしてくれました。僕はO君の「家」を見てしまったことで、彼との関係が変わったことなど、ひとつもなかったと感じていました。

そのことがあってからしばらくして、O君はどこかの小学校へ転校していきました。
そして程なくO君からの便りがあり、僕は彼と会いました。

「僕の家に来いひん?」

僕はまた誘われるまま、歩いて1時間程の道のりを彼についてゆきました。こんどは、織機の音が聞こえる昔ながらの家々が並んだ一角にありました。表でお好みを焼いている駄菓子家で、二階の部屋がO君のこんどの「家」でした。斜めになった低い天井、むしこ窓が妙に明るかったことを覚えています。

そして40年後、偶然に街でO君と出会いました。お互い時間がなかったので長い話しはできなかったのですが、O君がそっと名刺を差し出して言いました。

あの、懐かしい声で、「できれば、いちど来て」・・・と。

亀村 俊二

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始めての個展のあとで



昭和61年の夏
私は始めて写真の個展を開きました。
タイトルは「沼の楽譜」、京都の町中に存在する「小さな池(深泥池・国指定の天然記念物)」の動植物の四季の営みを追った写真展です。

京都人ならちょっと気になる「深泥池」の写真とあって、新聞やテレビでも数多くとりあげられ、会期中2000人を越える人々でにぎわい初個展の成功は大変うれしいことでした。
そして、これで写真家として世間に認められ仕事も増えるだろうと感じていました。

個展も終わり、数日していつもの出版社の担当者からお呼びがかか、り私は当然、良い話しであるだろうと期待して出向きました。

ところが、先方は私の展覧会活動をあまり良しと捉えていないようなのです。
個展は褒めていただいたのですが、どういうわけか写真撮影代の見直しを余儀なくされ、その年から値下げの契約をさせられてしまいました。

追い討ちをかけるように、他社からも「うちは写真の先生はいらんなあ」と言われてしまったのです。京都流に言う「京都人のいけず」をまともに喰らったのでしょうか。私はそれらの出版社から自然と離れることになり、そして、いつか見返してみせると、懲りずに展覧会活動を続けてきたのです。

時がたち、今は仕事抜きにして、どちらの出版社の人達とも、わだかまりもなく付合ってはいるのですが、あの個展のあとの出来事は、『ほんまもんの「京都人のいけず」やったんやろか』、はたまた『小さな成功で有頂天になってしもうた若い自分の言動に問題があったんやろうか』
最近接する若い写真家たちを見て、ふっとあの頃の自分を思い起こす昨今です。

亀村 俊二

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東海道新幹線にて



先日、東京行きの新幹線に妻とふたりで乗ったときのことです。

列車は静岡駅に着きました。そこで、アナウンスがあり 「車内に急病人がでました。ご乗客の中にお医者さまがおられましたら、3号車まで至急おこしください。」

突然、通路を挟んだ臨席の50代半ばの男性は立ち上がり、駅弁の箸を放り出して列車の後方へ向かいました。
「今の人、お医者さんかなあ」と妻と顔を見合わせ心配していました。
列車は20分ほど遅れはしましたが、ようやく走り出し程なくその男性も帰ってきました。

彼が席に戻るなり
妻 「お医者さんですか。」
男性 「あっ、はい、小児科医です。」
妻 「ありがとうございました。」
男性 「それほど、役にたちませんでしたが。」
と控えめな返事が返って来ました。

騒然としていた車内も平常に戻り、安堵の空気が漂いはじめました。
「先ほどのお医者さまおられましたら、乗務員にお声がけください。」と車内アナウンスは何度も繰り返されます。

しかし隣の席の男性は黙々と食べかけの弁当を口に運ぶばかり。通り過ぎて行く乗務員たちには、なかなか医者の彼を見つけることがで来ません。
彼もそのまま名乗り出ることもなく、車窓には雪を頂いた富士がうす雲に見え隠れして、そして何もなかったかのように新幹線は走り続けていました。

亀村 俊二

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遠い記憶<大雪の日>



昭和30何年だったか、はっきりとした年はわかりませんが、その年の正月、京都に大雪が降りました。
朝起きると、子供の腰くらいのところまで雪が積もっていました。

突然、父は物置から古いスキー板を持ち出して来て短く寸法を揃えてのこぎりで切り始めたのです。
二本のスキー板をまたぐようにして箱を取り付け、子供がひとり乗れるそりを私と兄のために作ってくれたのでした。

私たちはうれしくて、近所の子供たちを誘って衣笠山の麓へそり遊びにでかけることにしました。父が作ったそりを引きながら、山へは家からまっすぐ西へ15分位で着きました。

急な山の斜面を何度も滑り降り楽しく遊んでいたのですが、、近所の子供たちはそのうち遊びに飽きて帰ってしまいました。残された兄と私は、それでもまだしばらくはそり遊びを続けていたのですが、とうとう、そりが壊れてしまい滑らなくなってしまいました。

ふたりでそりを持って帰ろうとしても、たっぷりと水を含んだ古いスキーと、板きれと化したりんご箱は重くて、子供の手にはおえないものになっていました。そして雪はしんしんと降り続け、日は傾きはじめ、私たち兄弟は父に作ってもらったそりのことで言い合いをしていました。

兄は、「お父ちゃんに怒られるからどうしても持って帰る」
弟の私は、「このままでは遭難してしまう。ここに置いて、早く帰ろう」と言い、けっして意見があいません。

結局、私がひとりで家まで帰り父に助けを求めることになりました。兄はそりの側で凍えながら身をかがめ、私は泣きながらまっ白い道を東へと歩き始めました。

しばらく歩くと、遠くに二人の大人の影を見つけました。あふれる涙越しに見つめた、そのだんだんと近づく影の映像をはっきりと記憶しています。私の真っ赤にはれあがった両手を、やわらかな毛糸の手袋でふんわりと握ってもらった肌触りはいまも忘れることができません。

そのふたつの影は、着物姿の父と、当時大学生だった親戚のお兄さんでありました。

亀村 俊二

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遠い記憶<森の向こう>



私は幼い頃身体が弱く、母がわたしの健康を気遣ったのか、少し疲れた様子をみせるとけっして戸外で遊ぶことをゆるしませんでした。

家の裏庭は神社の森と接し、古びた塀で隔たっていました。波形のトタン塀はみどりのペンキで塗られ、褐色の錆びでおおわれていました。

森の向こうは町内のあそび場となり、そこで三角ベースや、ドッジボール、ビー玉、面子(めんこ)、肉弾や胴馬など、高学年のお兄さんから小さな子供たちまでが一緒になって毎日遊んでいました。
ボールの跳ねる音、森の奥深くまで転がった球を探し廻る聲、そんな楽しそうに騒ぐ友たちの様子がつたわってきます。

私といえばいつものように外出禁止、飼い犬のように裏庭をうろうろとする日が続いたある日、とうとう我慢出来ず子供の背丈では届きそうにもない高い塀の向こうをのぞくことにしたのです。

庭の隅に散乱している廃材を塀に添って積み上げ足場を作りました。
その不安定な足場の上に乗りトタン塀の上部に両手を掛け、グッと背伸びをしました。
すると、森の向こうの様子がほんの一瞬垣間見えたかに思えたその瞬間、掌に走ったにぶい痛みはいまも忘れません。

今、私の左の掌にある大きな波形の傷跡をみつめる時、おさな友達の顔やもっと自由に遊びたかった想いなどが走馬灯のように思いだされるのです。

亀村 俊二

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再々会 



従弟から一つの腕時計を見せられました。
三十数年前私から貰ったというクロームメッキでシンプルなデザイン。

その腕時計を見た瞬間、懐かしいおもいがわいてきました。中学進学の記念として父に買ってもらったものだったのです。セイコーの17石、手巻き腕時計、確か当時2800円だったこともよく覚えています。
私はそれを彼に譲ったことなどすっかり忘れていました。

おもえば、この腕時計と再会するのはこれが始めてではありません。

それは中学三年生のことです。
そのころ校則で禁止されている腕時計を、私も隠し持って学校へ行っていました。授業中、後ろの席の同級生にせがまれ、そっと見せただけの腕時計が返ってこなくなりました。何度か返すようにと彼に言ったのですが、返事は「しらない」のいってんばり。当時の公立中学では、こういうことやけんかなどはそれほどめずらしいことではありませんでした。私はどういうわけかこの出来事にはあまり動じず、そのうちに返ってくるだろうとしばらく構えていました。

一ヶ月ほどが過ぎたある日、突然、私の家の玄関先にあの同級生が立っていたのです。そして、私に申し訳なさそうに腕時計を差し出し、素直にあやまってきました。

がっしりした体格でやんちゃな彼が、今日にかぎってみょうに大人しかったこと。そして、そのときの同級生に何があったのか。それは未だに想像もできない不思議な出来事でした。

再々会できたセイコーの腕時計は、文字盤のガラスも皮ベルトも新しいものに替えられ、ピカピカ光って幸せそうに時を刻んでいます。

亀村 俊二

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現代・東京物語



先日、私と妻は東京で暮らす三人の息子と久しぶりに食事でもしようと思い立ち、二泊三日の旅行にでかけました。

あいにく息子たち三人の時間があわず、一人ずつ順番に逢うことになりました。彼らはそれぞれ、おすすめのギャラリーをおしえてくれたりめずらしい料理店へつれて行ってくれたりと、忙しい中、時間をさいてつきあってくれました。

歩く時はかばんを持ってくれるし(手を引くところまではいきませんが)、仕事のことや写真のこと、いろいろとゆっくり話しができて楽しかったのですが、息子たちに案内されるままの歩きと、人込みと地下鉄の階段の多さに疲れきって帰ってきました。

その昔見た映画・小津安二郎監督「東京物語」。笠智衆・東山千恵子演ずる年老いた夫婦が、東京に住む子供たちを訪ねる・・・もの悲しい物語。

実際の私たちは、老夫婦でもなければもの悲しくもないのですが、ふっと映画のひとコマと重なり合って思い浮かべていました。
そのことを妻に言うと、「私も一緒!」とおもわず共感した次第です。

亀村 俊二

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「一言」



先日こんな経験をしました。

京都の町家が並ぶ幅狭い通りをゆっくりと車を運転していました。前方には外国人の女性がふたり、大きな旅行バッグを転がして歩いています。傍にはガイドでしょうか、日本人の女性が同行していました。

ふっと見ると、大きなバッグの上に積まれたおみやげらしき物がころげ落ちました。彼女たちはなにも気付かず歩いていきます。
私は車のクラクションを小さくならし、振り返った三人に落ちた荷物を指差してそのことを知らせました。日本人の女性があわてて引き返し、それを拾って、こちらを見ることもなくまたもとの二人と並んで歩き始めました。

私は、「なんと礼儀のない人間やなあ、ちょっとくらい挨拶してもいいのに」と感じた次の瞬間、二人の外国人女性たちがこちらを振り返り手を振って、美しい笑顔で会釈してくれました。
そのことで気を良くした私でしたが、こちらに何の反応も示さない日本人女性の態度が許せない複雑な思いが残ってしまいました。

そんなことがあってから数日後、京都駅でのことです。
大勢の人々の中、新幹線に乗車するため私も列に並んでいました。
そこへあわてて走ってきた一人の女性が列の隙間をすり抜けようとして、ジュースを持って並んでいた別の女性と接触、その手に持たれたジュースを飛ばしてしまったのです。

オレンジ色の液体と細かい氷が紙コップとともに空中に舞い、ホームに散乱しました。あわてて走り抜けた女性は、自分が起こしてしまったことに気付いたのでしょう。数メートル走った後、振り返ってはみたものの、「無言」で、ただただ当事者たちのにらみ合いが続くばかり、衆人は緊張に包まれました。

そして結果、一人の女性は踵を返し走り去ってしまい、残された女性は紙コップを拾い始めたのです。
「ああ、一言ほしかった・・・・。」
現在の日本人のこんな部分を見てしまった情けない瞬間でした。

亀村 俊二

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