ちょっと、お寺で一休み



もうずいぶん以前の話になります。妻は学校に勤め、私はフリーのカメラマンで月のうち何日かは撮影の依頼もなく、そんな時は写真の被写体をさがして京都近辺をあちこち車で走ることが常でした。

京都を南に下がって行くと、いつもお参りさせていただくお寺があります。伏見の妙福寺です。

その日もカメラを持って走り回っていましたが、ちょっと、妙福寺さんでひと休み、お寺でひと休みとは、ばちがあたりますが、本堂にごあいさつを終えてから庫裡へ向かいます。

当時、庫裡には御住職が居られ側にはいつもかおる奥様がついておられました。
私が訪れるとご信心の話、仕事の話、家族の話、楽しいことや困ったこと、いろいろ聞いていただき、教えていただけます。こころも身体もひと休みの後は、背中を押されるようにまたもとの仕事に戻って行くのです。

いつものように御住職、奥様との話を終え「ありがとうございました。それでは」と、立ち上がったのですが、かおる奥様が私の足下を見つめて、
「あんた、靴下、大きな穴あけて、えみちゃん(私の妻)なにしてんの」
「ちょっと待ってよし」と言って奥からまだ包装紙に包まれたままの靴下のケース箱を持ってこられました。

「これにお履替え」
かおる奥様のお人柄からくるものでしょうか、 靴下の大きな穴を見つけられても恥ずかしい思いをすることもなく、妙に素直に、その中の気に入った靴下を一足取り出していました。
そしてその場で履き替えることになったのです。

「これ、みんな、持ってお帰り」
私は何足かの靴下をもらって、まるでやさしい母に叱られるような、そんなうれしい気持ちでお寺を後にしたことを記憶しております。

亀村 俊二

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人生の転機



1970年頃のことです。
私は当時、写真の好きな学生でした。
京都生まれ京都育ちだからという訳ではないのですが、なんとなくのんびりと京都の寺を被写体に写真を撮っていました。

ある日、夜明け前からカメラを持って家から歩いて30分ほどのところにある紫野・大徳寺に向かっていました。

大徳寺の塔頭のひとつ大仙院の門前を通り過ぎようとしたとき、一人の坊さんが竹箒で、まだ夜の明けきらない参道の砂利を、規則正しく掃き揃えている場面と遭遇、坊さんは作務衣姿にぞうり履き、頭には白い日本手ぬぐいをかぶり、それは絶好の被写体でした。

そっとカメラを向けシャッターを切ろうとした瞬間、私の次の行動を悟られてしまったのか
「おい・・・こんな朝から写真なんか撮って・・・」
「そのまえに、掃除や」
いったん山門の大きな扉の裏にまわった坊さんは、片手にもう一本の竹箒を持って足早にこちらへ飛んできました。

きょとんとしている私の顔前にそれは差し出されたのです。
私はその時の坊さんの素早い動きと、鋭く輝いた瞳を今も忘れることができません。
それから、どのようにしてその坊さんと一緒に参道を掃き清めたかはっきりと覚えていませんが、この出来事をきっかけに私は大徳寺・大仙院に足繁く通うようになりました。

お坊さんの名前は、尾関宗園。しばらくして知ったのですが、テレビやラジオにもよく出演し、また数多く書籍も執筆されている名物和尚さんだったのです。大仙院は拝観寺院でもあり、毎日大勢の拝観者で和尚さんはいつも忙しく寺内をとびまわっておられます。

私はそれでも月のうち幾度も大仙院を訪れ、そのうち庫裡にまで上がり込み、いつもおうすとお菓子をすすめられ、奥様や寺方さんとも親しく話をさせていただくようになりました。学生の身にもかかわらず、そんなひと時を過ごすことが好きでした。

禅の写真を撮りたいと無理を言ったこともありました。
和尚さんは未熟な写真小僧に対しても、本堂や廊下で禅を組み、「平常心」の被写体を与えていただき、私は何も恐れず夢中でシャッターを切りました。 そして出来上がった写真を和尚さんに渡し、褒めてもらうことが楽しみでした。

学生生活も終わりが近づき、そろそろ就職をしなくてはという時に、和尚さんに将来について話したことがあります。
「写真家になりたいのです。」
和尚さんは私の話しを熱心に聞き、「写真をやりたいのやったら写真家の先生を紹介しようか」
和尚さんの口から当時の日本の代表的な写真家の名前が次々とあがってきました。

その中に京都の写真家・浅野喜市先生の名前もがありました。
そのころ浅野先生は河原町の朝日会館で「嵯峨野」の写真展をされていて、私はその展覧会を見てひじょうに感動しておりました。

さっそく、わたしは浅野喜市先生に会わせていただくよう和尚さんにお願いしました。きっと電話か手紙で紹介されるものかと思っていましたが、和尚さんは私をつれて浅野先生のお宅まで同行していただき、そして「鞄持ちでもなんでもさせますから亀村に写真というものを教えてやってほしい」と私が言わなければならないことまで和尚さんに言わせてしまっていました。

こんなことがきっかけとなり、私は写真の世界へ入ることができたのです。
そして今、「ひとりの坊さんとの出会い」と「あの参道を掃除した」記憶はわたしの人生の転機において繰り返し表れる映像となっているのです。

亀村 俊二

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父から習った写真



中学生のころ、父から「写真の撮り方」を習ったことがあります。

シャッタースピードと絞りの関係のこと、ピントのあわせ位置、カメラの構え方は、「両足を肩幅に開き、脇をしめ、」「左の掌にカメラを軽く乗せ、右手は添えるように、」「人差し指の先端で真上からシャッターボタンをそっと押す。」「その瞬間は軽く息を止めて、」などです。

今、私は京都精華大学の写真の授業で、この「ブレのない、シャープな写真の撮り方」をいちばんに教えることにしています。
父から習ったことを懐かしく思い出しながら・・・・。

その時、学生たちは私の実演するカメラの扱いに目を輝かせて乗ってきます。
そしていつも、私は父の言葉をそのままに繰り返している自分の姿に気づくのです。

亀村 俊二

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中高年の登山



妻と友人の三人で一泊旅行にでかけました。

三重県紀伊長島、魚料理と温泉でのんびりとした旅、初日はあいにくの雨でしたが、次の日は快晴となり、私は早朝から、宿の前に広がる砂浜の写真を撮って歩きました。

宿に戻って朝食をすませ、今日は何処へ行こうかと三人で計画、ロビーのポスターを見て、近くに世界遺産で有名な「熊野古道」があるのを知り、見に行くことにしました。

私たちは軽装で、そして家からつれて来た犬も車に待たせていたものですから、ほんのさわりの「深い自然と連なる石の山道」の風景に出会えれば折り返すことにしました。

大きな石を踏みしめ、登り始めた山道は大変にきつく私たちはゆっくりと進みました。いくらか登ると、下の方からざわざわと大勢の話声が聞こえだしました。振り返るとまだ姿は見えませんが、確かにそのざわめきはどんどん近づいて来ます。

そして、いつのまにか20人ほどのグループに取り囲まれたかとおもうと、彼らの足取りは軽く、あっという間に山の奥へと消えて行きました。

私は彼らにいっきに追い越されてしまった自分の体力の無さに大変なショックを受けたのですが、その彼らが私の歳をはるかに超える初老の登山グループであったことが、未だに忘れることができません。

亀村 俊二

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遠い記憶(サンライズパン)



昭和30年頃です。
私の家の裏の神社の角を曲がるとバス停があり、その前に小さなパン屋がありました。
私は祖母から5円玉を一つもらって、いつもは別の方向にある駄菓子屋へおやつを買いに走るのですが、その日に限って10円貰って、私はバス停前のパン屋に向かって走っていました。

確か晩ご飯までには少し時間がありました。
よほどお腹がすいていたのか10円貰って嬉しかったのか、いつもはそこで森永のキャラメルを買うことに決めていたのですが、その日はパンを買ってしまいました。

サンライズパン(現在のメロンパン)を買って店から出ると、バス停にバスが止まりました。
なにげなくバスから降りる人々を眺めていると、いつも夜遅く帰宅するはずの父が、早く仕事を終えたのか、そのバスから降りてきたのです。

私はとっさに今買ったサンライズパンを体の後ろに隠し、父を迎えていました。食事前にパンを食べて叱られることを恐れたのではなく、腹を空かせて仕事から帰って来た父に、子供心に申し訳なくて今買ったパンを見せることができなかったのです。

たぶん私が両手を後ろにまわしなにかを隠し持っていたことを、父は知っていたと思います。
前後することもなく並んで家まで歩く少年と父、後ろに廻った小さな手にはサンライズパン。

そんなけっして自分では見ることのない背後からの映像を、私は何故かはっきりと記憶しているのです。
しかし家に帰ってからの、あのパンがどうなったのか残念ながら思い出せないままなのです。

亀村 俊二

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ギャラリーカフェを始めました



今年3月から妻とふたりで1階スタジオの整理から始まった手づくりのギャラリーカフェ、撮影の合間に少しの時間を見つけて1階から2・3階への荷物の移動やペンキ塗り、楽しいようでけっこう辛いものもありました。

お陰で完成までの間に2度のギックリ腰をやる始末、しかし、困った時に助っ人は現れるものです。

電気の磯田さん、水道の坂元さん、大工仕事の木村さん、稲田さん、京都精華大学芸術学部の重村君、息子の友達駒井君、北波君、高橋君、友人の息子科田龍之介君、小太郎君、妻の友人平塚さん、森本さん、適切なアドバイスをいただいた友人のデザイナー丹治千景さん、 画家の藤原さん夫妻、小出君夫妻、アシスタントでカメラマンのWato、まだまだいろんな方々に無理ばっかり言って手伝っていただきました。

おかげさまでなんとかギャラリーとカフェができあがりました。ありがとうございました。

名前は「horizont」(ホリゾント・スタジオの背景に使用する白い壁面)とします。
horizontの後に小さくart cafeと付きます。
これからゆっくりと育てていきたいと思っています。
今後ともhorizont art cafe をよろしくお願いします。

亀村 俊二

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初心忘るべからず?



ふと、私がフリーカメラマンとして初めて撮影した時のことを思い出すことがあります。

京都にある出版社から、社会科の教科書に掲載される写真の撮影依頼がありました。
26歳で独立した私にとってやっと来た初めてのやりがいのある仕事です。

ところが詳しい撮影内容を担当者から聞いてびっくり・・・なんと私の初仕事は、「奈良の大仏」の撮影だったのです。

それまでカメラマンの助手として何度も困難な撮影に立ち会ってはいましたが、今回は撮影許可どおり、限られた時間のうちに一人で撮影を終えなくてはなりません。ましてこちらは人には大きな声で言えない初仕事のカメラマン。失敗は絶対に許されません。

大きくて暗い御堂の中、カメラのシャッタースピードは?絞りは?さっぱり予想もつきません。
はたしてうまく写ってくれるのかー。

あまりにも心配になって、撮影日までにあらかじめ下見しておくことにしました。小さなカメラをジャンバーの内にしのばせて 、本番と同じ条件で撮影、シャッタースピード、絞り、ok カメラ位置はここからこの角度で・・・よし、
これで撮影当日はよく仕事慣れしたカメラマンのように動ければ・・・こんな思いではじめての撮影を経験した未熟な私でした。

あれから28年、ずいぶん慣れたはずの写真撮影ですが、いまだに ちょっと困難な撮影が迫ると
「果たしてうまく写ってくれるのか・・」
またまた心配になってしまうこんな人間の性格が憎い。

亀村 俊二

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パリの出合い



91年の私のパリ個展は誰にもみてもらえるチャンスもなく失敗に終わりました。

悔しい思いの私と妻、パリの街も歩き疲れて、サンジェルマン・デプレの教会のまえのカフェ・マーゴのテラスでコーヒーを注文してひと休み。

一ヶ月間続いた誰もこない個展のことを思い返しつつ、さまざまな人種の異邦人達がカフェの前を通り過ぎて行くようすをぼんやりと眺めていました。

その中にこちらを向いて不器用そうに何度もシャッターを押し続ける私より少し歳の若そうな日本人カメラマンが目に止まりました。

今から思うといつもの私なら絶対にしないであろう行動に出てしまっていました。テーブルを離れ、歩道にいる彼のところまで声をかけにいったのです。
同じ写真を職業にしている身、苦労も多いだろうと勝手に思い込み、始めて逢った彼と写真の話を始めました。話も弾み、「こちらで一緒にお茶でも」と私たちのテーブルまで誘っていたのです。

よく聞いてみると彼はパリ在住のジャーナリスト、そして私はパリ個展が失敗に終わった無名の写真家、話は逆転し、いつの間にか個展の失敗談を彼に聞いてもらっている始末。

その後、年月がかかったものの、結局、彼に託した私の作品がパリ大学の色彩学の教授の目に止まることとなり、パリ国立図書館より作品の買い上げのきっかけになったりと、偶然、そして又不思議な力で出会った彼には世話になりっぱなし。

私と彼とのおつきあいはそんな導かれたようなおはからいで始まった次第です。

亀村俊二

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出会い・パリのカフェで



91年にパリで一ヶ月間の個展を開いた時のことです。

会場はパリの中心サントノーレ通りに面した小さなギャラリーです。
開催日の前日、妻と二人で作品を展示、事前に用意された案内状は配布ずみ、ポスターは街角に守備よく掲示されたはず、さあ、個展は始まりました。

ところが、来るはずのお客はほとんど来ません。二日目、三日目とお客が入らないのです。

私と妻は会場にだんだん居づらくなってきて、パリの街を散策して一日を過ごすことにしました。そして、ある重大なことに気付きました。
街角に貼られてあるはずの数百枚の展覧会のポスターがどこにも見あたりません。ギャラリーの周辺に数枚寂しそうに貼られているだけでした。
そうすると案内状の配布も・・・?

すぐにギャラリーの担当者にポスターや案内状のことについて尋ねてみました。
答えは「アルバイトのものにさせたのですが・・・」
本当に悔しい思いのパリの個展でした。

この話にはまだつづきがあります。
次号も読んで頂ければうれしいです。

亀村俊二

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横浜旅行・道中記



私達には3人の息子がいます。
長男は東京で写真家を志し、次男も東京で映像の仕事に就いています。おまけに三男も同じマンションに転がり込み、この春学校を卒業して音楽の道に進もうとしています。

子育ても終わろうとする今、ふと自分達のことを振り返ってみると、私は商業写真の仕事に就いて30年、妻も長年勤めた職を辞し私の仕事のパートナーとして共に歩んできました。

おかげさまで仕事は途切れることもなくここまでこられたのですが、しかしこの頃、目や体力の衰えとともに世間でいう定年のようなものがフリーカメラマンの私にも近付きつつあると感じられるようになってきました。

クライアントの注文に応じる写真の撮影は体力と根気が勝負です。
このままがむしゃらに仕事を続けていくのか、新しいスタイルでいくのか、いろいろと考えた挙げ句・・・「ここらで人生 すこしかえようか・・・」

「老後はギャラリーと喫茶店でもして好きな写真を撮って暮らせたらなあ」と思ってはいたのですが、よく考えれば、老後、働けなくなってからでは遅すぎることに目覚め、おもいきって自宅のスタジオをギャラリーカフェに改造する工事を始めました。

秋には、私はギャラリーのオーナーと写真家として、妻はコーヒーたてて、「はじめの一歩」が始まります。
想えば、私の父も国家公務員を退き新しい職に就いたのが54歳、今の私の歳だったのです。

亀村俊二

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