飄々と・・



先日、友人がうちのギャラリーカフェに来て 妻の煎れるコーヒーを楽しみながらこんなことを言って帰りました。

「ここは、ええなあ、何時ものんびりしていて明るくて」
「何の悩みも感じられへんし」 「かめさんも(私のこと)飄々と暮らしてて」 「ここへ来たら、癒されるわ・・・」

私と妻は、友人が残していったその言葉に此の上なく勇気づけられました。

私たちも世間と同じように時間に追われながら時として心にゆとりなく暮らしているはずなのですが・・・ 彼の目には『悩みもなく飄々と生きている』ように映ったのですね。

亀村 俊二

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「養生の実技」より



五木寛之の「養生の実技」を昨年読みました。
その本には、作家五木寛之が彼なりに身体に良いことを 実行していることが書かれています。

もののたとえで、彼はこういうことを言っています。 「うなぎ」はぬるぬるとしていますが それを、タオルできれいに拭き取ればすぐに死んでしまいます。
人間の場合も同じで、皮膚の脂を石けんで取りすぎると あまり良くないようです。
私は、五木さんの考えになんとなく納得してすぐに実行に移しました。

それまで、毎日お風呂に入ってシャンプーをしてたのですがその日から、石けんで頭を洗うことを止めました。 シャワーでよくすすぐだけの洗髪にしたのです。 数日は「かゆくて困るかなあ」と心配していましたがところが何日たっても私の頭頂部の薄くなった丸刈り頭は かゆくなったりはしなかったのです。

あれから一年と数ヶ月が過ぎました。

私だけの気のせいでしょうか
丸刈り頭のてっぺんに新しい髪が生えて来たような感じもする最近ですが・・・・。
心当たりのある方はいちど実行されてみてはいかがなものでしょうか?

亀村 俊二

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空振りの連続



私は子供の頃から球技が苦手で、いつも近所の子供たちから相手にされない子供でした。

小学校低学年のころ近所の草むらで三角ベースが始まりました。 身体も弱く、人いちばい野球もへたなのですが 、その日にかぎって人数合わせで誘ってもらいました。

私は野球に加えてもらわなくてもよかったのですが、何度も誘われるのでしかたなく仲に入りました。三角ベースは少人数でする野球なのですぐにバッターの順番が回って来ます。 ほどなく私の番がきました。

ピッチャーの投げたボールは私の予想どおり弱々しく振ったバットからは ほど遠いところを通過していきました。あとの2球もそのまま私の前を通り抜け、あえなく三振となってしまいました。

「ああやっぱり三振か」皆のニヤッと笑う顔が私の目に飛び込んで来ました。
次の番もその次も三振は止まりません。 周りの者たちが、私のいくじのなさにしびれを切らして
「バットを短くもって」「もっとボールをよく見て」「脇をしめて」「あごを引いて」 あきれたように特訓をしてくれるのですが私の空振りは焦れば焦るほど止まりません。

私は顔から火の出るほど恥ずかしい思いをしながらバットを振り続けました。

結局、夕方まで振り続けたバットには一度もボールはあたらなかったのです。
複雑なこころで家路についた想いは今も忘れません。 以来、こういった私の弱々しい面はふだんの生活や仕事にも時として現われます。 そして、そのような時、いつもあのどうにもならない空振りのくりかえしの場面が想い出されて来るのです。

亀村 俊二

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父の臨終



私の父は晩年胸の病で入退院を繰り返していたのですが 6年前の春の入院が最後でした。
当時、私は仕事が忙しく出張撮影に妻とともにあちこちと出かけ不規則な生活をつづけていました。父の入院した病院は幸いにも私の家の近くだったので 京都にいるときは朝に必ず病院へ行って父と会っていました。

父は薬の効かない胸の病と高齢ということもあって日に日に弱ってゆきました。 ある時、院長先生が私たちにレントゲンフィルムを見せて病状を説明されました。

「お父さんの肺は20%も機能していませんね」

確かにレントゲンで見ると父の左右の肺はほとんど形をなしていません。 心臓といえば空気の抜けたヨウヨウ玉のように細く長く写っているではありませんか。

「先生、本人はしんどいですか?」
「いや、脳に酸素がいきわたってないので、あまり感じられてないでしょう」

私たちは院長先生のその言葉を聞いて少し安心しました。 父は目尻に涙をためながら何か言いたげに合図をおくります。 私と妻は父の口元に耳を近づけ、か細い声を聞くのですが あるとき、はっきりと父の言葉が聞き取れたのです。

「はよ、死なしてえな」

私たちは父のその言葉を聞いてしまって、涙しました。 涙して、そして父の耳元で言いました。
「お題目唱えたらええねん」 「お題目お唱えしたら・・・」

父はそのことがあってから数日後に死にました。
私と妻が朝早く父に会って「待っててや、撮影に行ってくるしな」 といって出かけた後のことでした。 私は父の言葉を聞いてしまったあの時、少しでも長生きしてほしかったのか、またそうでなかったのか、矛盾するこころの決断を、今も後悔はしておりません。

父の七回忌にあたり、ふっと想い起こすこころの中の出来事でした。

亀村 俊二

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息子の結婚

この春の次男の結婚披露宴でのことです。

次男・佳宏と麻美さんがふたりで工夫を凝らした レストランでの披露宴はたいへんなごやかに進んでおりました。

私は両家を代表してお礼の挨拶をすることになっていたのですが、挨拶の途中感極まって涙してしまわないか心配しながらも宴はお開きに近づいていきました。

おいしい料理やお酒、楽しいひとときのおかげで、涙のことなどすっかり忘れてしまった私は心配するほどのこともなく挨拶をすませることができたのです。

次に新郎の挨拶が始まりました。
ところが、最初の一言はよかったのですが次の言葉が出て来ません。 あまりにも長い沈黙が続くのでそっと佳宏の顔を覗いてみるとうつむいた彼の目もとには感激の涙があふれていたのです。
沈黙は続きます・・・。

誰もが諦めかけたその時、お礼の挨拶のつづきが始まりました。

夫にかわって、妻になったばかりの麻美さんのそのあいさつは 佳宏が忙しい仕事の合間を縫ってすすんで結婚式の準備に追われてくれたことなど夫への労いの言葉と 参列の皆様への感謝の気持ちが二人からのメッセージとしてしっかりと綴られておりました。

宴もことなく終わってほっとした私たち夫婦に先方のご両親が恐縮されるばかりです。
「もうしわけございません。」「麻美が、挨拶なんかしてしまって・・・」

実を言うと、私も肝心な時には妻に助けてもらってきた人生。
「ああ、良かった、良かった、奥さんがしっかりしていてくれて」とお嫁さんにこころより感謝するばかりなのでした。

亀村 俊二

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うれしい出来ごと



昨年、私が教える芸術大学の卒業生から突然電話がありました。 電話口の声で彼女の名前と顔をすぐにはっきりと思い浮かべることができました。

彼女は6年前に卒業して現在、大阪のデザイン事務所に勤務しています。 久しぶりの電話の内容は、私が撮った「京都の写真」でカレンダーの企画をしたいとのことでした。

企業のカレンダーにはコンペがあって、そこからひとつ選ばれるのですが 、 「デザイン」と「写真」が一つになって始めてよいものが生まれます。 正直言って、私の写真は毎年カレンダーのコンペには出るのですが 、 ここ何年間は選ばれることはありませんでした。

早速、数千枚の写真を選び持ち帰った彼女は、一ヶ月ほどして、そのうちの200枚もの写真をうまく散らして錦絵のようなデザインをあげてきてくれたのです。 彼女の時間を惜しまない努力と仕事に対する愛情が一目見て伝わってきました。 すばらしいカレンダーに仕上がっています。
そしてカレンダーは細部の修正を終えコンペに出されました。

程なく彼女から電話がありました。
「ありがとうございました。企画・・通りました。」と、うれしい声。

私もその声を聞いて、大きな仕事を終えた充実感を彼女とともに感じていました。

28歳の女性と57歳のおじさんとのコラボレーションなのですが 、私にとっては教え子から若い力をもらったようなそんな気持ちで、本当にうれしい出来ごとでした。

亀村 俊二

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昨年の秋、息子の知人から頼まれて 一匹の小猫をもらいました。 私の母がひとり暮らしをしているので、遊び相手にでも なるだろうと母の家で飼うことにしました。
小猫は、ミーと名付けられました。

野良猫の子としてうまれたミーは 大阪のとある公園で女の子に拾われたのですが 、 夏の日差しと公園の砂埃で小さな目はまともに開けることも ままならぬほど痛めつけられていました。
女の子は子猫を家に持ち帰ったのですが、飼うことが出来ず息子の知人に託したのです。

ミーと私の母は共に楽しく暮らし、半年が過ぎようとするころ、母は突然のぎっくり腰で寝込むこととなりました。 その後、母の身体は順調に快復したものの 母は私に、ミーを預かってほしいと言いだしました。 自分が寝込みでもすれば猫の世話が出来なくなってしまうと感じたのでしょう。

そして、ミーは私の家にしばらく居ることになったのですが、私のところも、ギャラリーとカフェをしているので 、もっとも親しくつきあっている家族に頼み込んであずかってもらうことにしたのです。

あれから1ヶ月、何度もミーの様子を伺いに友人宅をのぞいているのですが 夫婦と二人の娘さんにつぎつぎと可愛がられ南向きの広い庭とガラス戸のはまった縁先、居間には大きな炬燵があり いつもそこで、丸太のように伸びきって昼寝をしているミーと出会うと、野良猫として生まれたミーの人生いや猫生にろいろあったけど、彼にとって今が最高。

ここらで落ち着いてのんびりと幸せに暮らしてほしいとひそかに願うところです。

亀村 俊二

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ウクレレを始める



ギャラリー・ホリゾントに集ういつもの仲間でウクレレ・オーケストラが結成されました。今のところのメンバーは40代~60代の男女7人で、映像や、写真、図案や手芸など、ものづくりの人間達の集まりです。

練習はうまく弾ける者が、初心者に手を取り教えるというものとは言っても、私だけがまったくの初心者で、56歳において始めて弦楽器とのつきあいです。いくら教わってもうまく弾くことができない日々が長く続きました。なんとかメンバーについていけるようにと、ある名案を思いついたのです。

「よし、これは慣れるしかない」 「習うより、慣れろ」「生活をウクレレ漬けにしてやる」

それから、撮影やパソコンの少しの待ち時間をおしんでウクレレを傍らに、1分・2分の短時間練習の積み重ねが始まりました。

慣れというものは恐ろしいものですね。
ウクレレを練習し始めて3ヶ月、曲がりなりにもようやく昨年の暮れに3曲だけのライブを開くことができたのです。
ライブの様子を写した写真が出来てきました。小さなウクレレを抱えての楽しい演奏のようすが捉えられています。少し緊張気味の私とメンバーの顔には溢れんばかりの笑みがこぼれ落ちていました。

バンドの名は「エミーズ」。
いつもの練習日にお茶の世話など引き受けて、そして、いちばんのファンでもある妻の名前にちなんでメンバーが「エミーズ」と名付けてくれました。

亀村 俊二

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弁当箱



小学4年生の頃です。
その日は偶然に、私と兄の遠足の日で、母は二つのお弁当を作ってそれぞれに持たせてくれました。

家には何故か弁当箱が一つしかなく、母は隣に住む叔父の弁当箱を借りてきていたのです。そして、僕がそれをもって行くことになったのでした。

遠足はとても楽しく、すぐに食事時間となりました。皆で輪になり、僕は担任の先生の側に座りました。

一斉に弁当箱を取り出したときのことです。先生は僕の弁当箱を見つけると、「わー、かめむらくんのお弁当箱、ベコベコに歪んでるなあ」と大きな声で言ったのです。

級友達の目は僕の古ぼけたアルマイトの弁当箱に注がれました。そして、おおきな笑いがおこりました。当時の男子といえばアルミのブック型の弁当箱が流行でした。僕の顔は真っ赤になり、楽しかったはずの遠足は寂しい一日と変わってしまったのです。

今、社会の大きな問題になりつつある「学校内のいじめ」が報道されると何故か、私の中であの遠い日の出来事が思い出されてきます。

今日、美大で写真基礎の授業をもって11年となりますが、生徒たちひとり一人がどのように私の言葉を受けいれているのか、ふっと気になりながら授業をすすめている昨今です。

亀村 俊二

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京のもてなし



年に何度か京都に来られて仕事をご一緒する神戸の女性がおられます。彼女は大変京都好きなので、私と妻はいつも珍しいお店を探しておいて、撮影の合間にお昼をご一緒するのです。

先日、こんなことがありました。
「有名人が紹介する京都のお昼・・」という情報誌を見ていると、「老舗がつくる親子丼ぶり」が目に飛び込んできました。

妻 「あまり知らんお店やねえ」
私 「女優さんおすすめの店やから秘蔵の店かも知れんなあ」

そしてその老舗の前に立った私たち三人は、京都らしい町家の店構えに満足しながら中に入ったのですが、「お昼の親子丼ぶりのお客様は奥の二階です」となにかそっけない中居さんの声。

案内されるままに狭い廊下を通って奥座敷の席に着きました。お昼の時間には少し遅かったせいか、そこには一組の家族と修学旅行生のグループが静かに座敷机の前に座っているだけでした。

私たちも空いている席にゆったりと座ることにしました。二階の窓から見る坪庭の風景は瓦屋根と調和してさすが京の町家の風情でした。その景色を楽しんで話しているとすぐに親子丼ぶりが運ばれて来ました。

「もっとつめてください、相席ですから」

中居さんの言葉に驚いて小さな机の端に追いやられた私たちは、「味だけは期待どおりであってほしい」との思いで、早々と出されて来た親子丼ぶりに手をつけ始めました。

楽しみにしていた今回の京都のお昼ご飯は残念ながら期待はずれに終わってしまい、「たまにはこうのもあるよねえ」と妻と神戸の女性は私を慰めてくれるのでした。

勘定を済ませ誰もいない薄暗がりの玄関で靴を履いていると
「すみません~」「おおきに~」「すみません~」「おおきに~」「ありがとうございました~」とはりのある声が聞こえて来ます。

よく目を凝らして見ると暗がりの中、まっくろな九官鳥がしおらしく、けなげに私たちに声をかけてくれていたのです。おもわず心がほころび、なんとも皮肉なこの声に見送られ、笑いながら店を出た私たちでした。

期待に夢ふくらませて、京都に来られる観光の人々が多い昨今、「京のもてなし」にはじゅうぶん心をこめて気持ちよく帰って頂けるようにしてもらいたいものです。

亀村 俊二

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