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遠い記憶(サンライズパン)



昭和30年頃です。
私の家の裏の神社の角を曲がるとバス停があり、その前に小さなパン屋がありました。
私は祖母から5円玉を一つもらって、いつもは別の方向にある駄菓子屋へおやつを買いに走るのですが、その日に限って10円貰って、私はバス停前のパン屋に向かって走っていました。

確か晩ご飯までには少し時間がありました。
よほどお腹がすいていたのか10円貰って嬉しかったのか、いつもはそこで森永のキャラメルを買うことに決めていたのですが、その日はパンを買ってしまいました。

サンライズパン(現在のメロンパン)を買って店から出ると、バス停にバスが止まりました。
なにげなくバスから降りる人々を眺めていると、いつも夜遅く帰宅するはずの父が、早く仕事を終えたのか、そのバスから降りてきたのです。

私はとっさに今買ったサンライズパンを体の後ろに隠し、父を迎えていました。食事前にパンを食べて叱られることを恐れたのではなく、腹を空かせて仕事から帰って来た父に、子供心に申し訳なくて今買ったパンを見せることができなかったのです。

たぶん私が両手を後ろにまわしなにかを隠し持っていたことを、父は知っていたと思います。
前後することもなく並んで家まで歩く少年と父、後ろに廻った小さな手にはサンライズパン。

そんなけっして自分では見ることのない背後からの映像を、私は何故かはっきりと記憶しているのです。
しかし家に帰ってからの、あのパンがどうなったのか残念ながら思い出せないままなのです。

亀村 俊二

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ギャラリーカフェを始めました



今年3月から妻とふたりで1階スタジオの整理から始まった手づくりのギャラリーカフェ、撮影の合間に少しの時間を見つけて1階から2・3階への荷物の移動やペンキ塗り、楽しいようでけっこう辛いものもありました。

お陰で完成までの間に2度のギックリ腰をやる始末、しかし、困った時に助っ人は現れるものです。

電気の磯田さん、水道の坂元さん、大工仕事の木村さん、稲田さん、京都精華大学芸術学部の重村君、息子の友達駒井君、北波君、高橋君、友人の息子科田龍之介君、小太郎君、妻の友人平塚さん、森本さん、適切なアドバイスをいただいた友人のデザイナー丹治千景さん、 画家の藤原さん夫妻、小出君夫妻、アシスタントでカメラマンのWato、まだまだいろんな方々に無理ばっかり言って手伝っていただきました。

おかげさまでなんとかギャラリーとカフェができあがりました。ありがとうございました。

名前は「horizont」(ホリゾント・スタジオの背景に使用する白い壁面)とします。
horizontの後に小さくart cafeと付きます。
これからゆっくりと育てていきたいと思っています。
今後ともhorizont art cafe をよろしくお願いします。

亀村 俊二

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初心忘るべからず?



ふと、私がフリーカメラマンとして初めて撮影した時のことを思い出すことがあります。

京都にある出版社から、社会科の教科書に掲載される写真の撮影依頼がありました。
26歳で独立した私にとってやっと来た初めてのやりがいのある仕事です。

ところが詳しい撮影内容を担当者から聞いてびっくり・・・なんと私の初仕事は、「奈良の大仏」の撮影だったのです。

それまでカメラマンの助手として何度も困難な撮影に立ち会ってはいましたが、今回は撮影許可どおり、限られた時間のうちに一人で撮影を終えなくてはなりません。ましてこちらは人には大きな声で言えない初仕事のカメラマン。失敗は絶対に許されません。

大きくて暗い御堂の中、カメラのシャッタースピードは?絞りは?さっぱり予想もつきません。
はたしてうまく写ってくれるのかー。

あまりにも心配になって、撮影日までにあらかじめ下見しておくことにしました。小さなカメラをジャンバーの内にしのばせて 、本番と同じ条件で撮影、シャッタースピード、絞り、ok カメラ位置はここからこの角度で・・・よし、
これで撮影当日はよく仕事慣れしたカメラマンのように動ければ・・・こんな思いではじめての撮影を経験した未熟な私でした。

あれから28年、ずいぶん慣れたはずの写真撮影ですが、いまだに ちょっと困難な撮影が迫ると
「果たしてうまく写ってくれるのか・・」
またまた心配になってしまうこんな人間の性格が憎い。

亀村 俊二

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パリの出合い



91年の私のパリ個展は誰にもみてもらえるチャンスもなく失敗に終わりました。

悔しい思いの私と妻、パリの街も歩き疲れて、サンジェルマン・デプレの教会のまえのカフェ・マーゴのテラスでコーヒーを注文してひと休み。

一ヶ月間続いた誰もこない個展のことを思い返しつつ、さまざまな人種の異邦人達がカフェの前を通り過ぎて行くようすをぼんやりと眺めていました。

その中にこちらを向いて不器用そうに何度もシャッターを押し続ける私より少し歳の若そうな日本人カメラマンが目に止まりました。

今から思うといつもの私なら絶対にしないであろう行動に出てしまっていました。テーブルを離れ、歩道にいる彼のところまで声をかけにいったのです。
同じ写真を職業にしている身、苦労も多いだろうと勝手に思い込み、始めて逢った彼と写真の話を始めました。話も弾み、「こちらで一緒にお茶でも」と私たちのテーブルまで誘っていたのです。

よく聞いてみると彼はパリ在住のジャーナリスト、そして私はパリ個展が失敗に終わった無名の写真家、話は逆転し、いつの間にか個展の失敗談を彼に聞いてもらっている始末。

その後、年月がかかったものの、結局、彼に託した私の作品がパリ大学の色彩学の教授の目に止まることとなり、パリ国立図書館より作品の買い上げのきっかけになったりと、偶然、そして又不思議な力で出会った彼には世話になりっぱなし。

私と彼とのおつきあいはそんな導かれたようなおはからいで始まった次第です。

亀村俊二

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出会い・パリのカフェで



91年にパリで一ヶ月間の個展を開いた時のことです。

会場はパリの中心サントノーレ通りに面した小さなギャラリーです。
開催日の前日、妻と二人で作品を展示、事前に用意された案内状は配布ずみ、ポスターは街角に守備よく掲示されたはず、さあ、個展は始まりました。

ところが、来るはずのお客はほとんど来ません。二日目、三日目とお客が入らないのです。

私と妻は会場にだんだん居づらくなってきて、パリの街を散策して一日を過ごすことにしました。そして、ある重大なことに気付きました。
街角に貼られてあるはずの数百枚の展覧会のポスターがどこにも見あたりません。ギャラリーの周辺に数枚寂しそうに貼られているだけでした。
そうすると案内状の配布も・・・?

すぐにギャラリーの担当者にポスターや案内状のことについて尋ねてみました。
答えは「アルバイトのものにさせたのですが・・・」
本当に悔しい思いのパリの個展でした。

この話にはまだつづきがあります。
次号も読んで頂ければうれしいです。

亀村俊二

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横浜旅行・道中記



私達には3人の息子がいます。
長男は東京で写真家を志し、次男も東京で映像の仕事に就いています。おまけに三男も同じマンションに転がり込み、この春学校を卒業して音楽の道に進もうとしています。

子育ても終わろうとする今、ふと自分達のことを振り返ってみると、私は商業写真の仕事に就いて30年、妻も長年勤めた職を辞し私の仕事のパートナーとして共に歩んできました。

おかげさまで仕事は途切れることもなくここまでこられたのですが、しかしこの頃、目や体力の衰えとともに世間でいう定年のようなものがフリーカメラマンの私にも近付きつつあると感じられるようになってきました。

クライアントの注文に応じる写真の撮影は体力と根気が勝負です。
このままがむしゃらに仕事を続けていくのか、新しいスタイルでいくのか、いろいろと考えた挙げ句・・・「ここらで人生 すこしかえようか・・・」

「老後はギャラリーと喫茶店でもして好きな写真を撮って暮らせたらなあ」と思ってはいたのですが、よく考えれば、老後、働けなくなってからでは遅すぎることに目覚め、おもいきって自宅のスタジオをギャラリーカフェに改造する工事を始めました。

秋には、私はギャラリーのオーナーと写真家として、妻はコーヒーたてて、「はじめの一歩」が始まります。
想えば、私の父も国家公務員を退き新しい職に就いたのが54歳、今の私の歳だったのです。

亀村俊二

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沖縄日帰り撮影の旅



台風の合間をぬって沖縄へ撮影に出かけました。
私のスケジュールの都合で日帰りの旅、朝9:10に大阪伊丹空港を発ち16:35の那覇発の飛行機に乗る計画をたてました。

撮影地は宜野湾市の美術館と沖縄戦跡の平和記念公園(摩文仁)と距離にして60kmほどの移動になります。
レンタカーを運転して回る予定でしたが、慣れない土地での運転はたいへん、タクシーで移動することにしました。

無理な計画とは知りながら時間内で撮影を終えたいと願い、空港で観光タクシーとの料金や時間を交渉、無理をなんとか了解してもらい車は走り始めました。

運転手さんは話好きで親切で運転もうまく、時間は計画通りすすんでいます。
南国の照りつける日ざしの中、撮影を終えて車に戻ってきた私は運転手さんからよく冷えたお茶をいただき、これも写されてはどうですかとハイビスカスの花を差し出されたりして・・・感謝。

すべて順調、短い時間でしたが快適な沖縄の旅、おかげで予定どおり仕事も終える事ができ、空港に戻ってきました。運転手さんのお名前も教えてもらい、私も名刺を渡し、「ありがとうございました。また沖縄に来た時には助けて下さい」あわててタクシーから降りようとする私に、彼はこまった顔をして言いました。

「あのー・・・料金いただいてないんですが・・・」
「すみませーん 運転手さん これだけの親切を受けておきながら・・・」
彼に申し訳ない気持ちがいまだに私の心に残り、忘れられない旅になりました。

亀村俊二

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ギャラリーカフェをつくる話



私達には3人の息子がいます。
長男は東京で写真家を志し、次男も東京で映像の仕事に就いています。おまけに三男も同じマンションに転がり込み、この春学校を卒業して音楽の道に進もうとしています。

子育ても終わろうとする今、ふと自分達のことを振り返ってみると、私は商業写真の仕事に就いて30年、妻も長年勤めた職を辞し私の仕事のパートナーとして共に歩んできました。

おかげさまで仕事は途切れることもなくここまでこられたのですが、しかしこの頃、目や体力の衰えとともに世間でいう定年のようなものがフリーカメラマンの私にも近付きつつあると感じられるようになってきました。

クライアントの注文に応じる写真の撮影は体力と根気が勝負です。
このままがむしゃらに仕事を続けていくのか、新しいスタイルでいくのか、いろいろと考えた挙げ句・・・「ここらで人生 すこしかえようか・・・」

「老後はギャラリーと喫茶店でもして好きな写真を撮って暮らせたらなあ」と思ってはいたのですが、よく考えれば、老後、働けなくなってからでは遅すぎることに目覚め、おもいきって自宅のスタジオをギャラリーカフェに改造する工事を始めました。

秋には、私はギャラリーのオーナーと写真家として、妻はコーヒーたてて、「はじめの一歩」が始まります。
想えば、私の父も国家公務員を退き新しい職に就いたのが54歳、今の私の歳だったのです。

亀村俊二

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記念写真



先日スタジオ改装のため20年間たまり続けた写真の山を整理していた折、心に残る1枚の写真が出てきました。

1987年4月、はじめて私が新宿ニコンサロンで個展をした時のものです。父母と妻と3人の子供達が写っています。

ことに父母は私のはれの舞台がうれしかったのでしょう。満面の笑みを浮かべて記念写真におさまっています。
あれから18年ー。

この6月1日から1ヶ月間、東京・品川の再春館ギャラリーで今度は私の長男が初の個展を開くことになりました。私たち夫婦も息子の個展に行くことを楽しみにしています。 そして、またあの時の父母と同じ気持ちで、同じ笑顔で私たちも記念写真におさまることになるのでしょう。

亀村俊二

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「外国人?」



東京・上野の森を撮影取材に訪れた時のことです。

撮影は不忍池から上野公園と順調に終え、筆者のR子さんと上野の森を写真の被写体を探しながら歩いていました。前方から若いカップルが自分達ふたりの写真を撮ってほしいらしく、小さなデジタルカメラを笑顔で私に差し出してきました。

「プリーズ ・・+* テイク ア ピクチャー」
と日本人である僕にはひじょうに分かりやすい英語でお願いされたのですが、「はいチーズ」と言っていいのか戸惑いながらも若いふたりにシャッターを切ってあげました。

そのことが終って、歩き始めた僕にR子さんが言いました。
「何処の国のひとでしょうね?」
「僕もそう思いました、どう見ても日本人ですね」・・・・そこでふっと
「それでは外国人は僕の方?」

そういえば僕の今日のいでたちは、浅黒い顔にひげ面でオレンジ色の毛糸の帽子をかぶっていました。
帰りの新幹線には帽子はポケットにしまいこんで乗りました。

亀村俊二

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