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子供の頃の正月風景を思い出しました。私の家は祖母と両親、兄と私の5人家族でした。 ご宝前のお祀りされた六畳間に集まって家族そろってのお参りを終え四畳半の居間のふすまを開けて少し広いめの間をつくると ご宝前に近い上座から祖母、父と順にお膳を並べます。
末っ子の私はいちばん端です。
朱塗りの膳の上に同じ朱塗りの椀や皿が四方に乗っています。 父の膳は大きくて次に兄で私の膳はいちばん小さなものでした。 祖母と母の膳は黒塗りで高い脚のついたもので椀は黒塗り中が朱に塗られたものでした。
元旦の挨拶を終え、祝い膳に箸をつけると新しい歳が始まります。 京都の雑煮は丸餅と頭いもの白味噌味仕立てを三ヶ日続いていただきます。頭いもは人の頭になれるようにと、大根や小芋そして花がつおがかけられゆらゆらと揺れています。
私は子供の頃、その濃厚な甘い白みそ雑煮が苦手でした。ところが、ふだんから小食ぎみの両親や祖母は一つ、もう一つと うまそうに餅をほうばります。
「この餅のどこがおいしいのやろ」と子供ごころに感じておりました。
今年も年末を控え正月を迎えます。
あの頃のように座敷で膳を並べ、大人達はきものなんぞ着て正月を祝うようなことなどなかなか出来なくなってしまいました。
もうすぐ息子たちが遠方から帰って来ます。 そしてあの白みそ雑煮をうまいうまいとおかわりするものもいますが 私と家族の数人はやはり未だに苦手なままでいるのです。
京都の雑煮とはそんな不可思議なものであると私は感じております。
亀村 俊二
数年前から私は写真撮影の移動手段として天気のよい日には補助電動機付き自転車を利用することにしてきました。
最近小型化しているデジタルカメラを前かごに入れ、三脚は荷台に結びつけます。
京都市内を自在に走って、目的地に着いてからの写真撮影はなんとも爽快であります。
先日、日経新聞に東京大学名誉教授の月尾嘉男氏はこんなことを書いておられました。
「環境対策の一つのステップとして最後に必要になるのは精神革命だ。
大型の車に乗る事が地位の象徴ではなく、むしろ小型車、場合によっては自転車に乗ることが格好いいという精神構造が必要になる。」
7年前、私は大きめの自家用車を軽自動車に乗り換えました。
私の場合は経済的理由からでもあるのですが月尾先生の書いておられた精神革命とまではいかないにしても「軽自動車が、自転車がエコロジーで格好いい」と思って乗っているのも事実でこの記事を読ませてもらって、なんとも、ほっとしている次第であります。
亀村 俊二
東京に住む三男に長いメールを送りました。
6年もの間離れて暮らし、たまにしか会わないでいると彼が何を考えどのような暮らしをしているのか 伝わってこないこともあります。
京都に住む私と妻の思うところもまたなかなか伝わりません。先日も、あることがきっかけであまり連絡をしてこなくなりました。
本当は逢ってじっくりと話す機会をつくればいいと思ったのですがこちらの考えをすべてメールで送ることにしました。携帯ではなくてパソコンでの手紙のように長いメールになりました。
一ヶ月後、東京で撮影があり仕事を終えた私は三男と夕食を共にしました。
食事中メールの内容のことを話し出そうかとしたのですが、私はあえて他のことばかりを話し続けました。ところが彼から積極的に話し出して来たのです。
私たち親子はこんどは向き合ってじっくりと話し合いました。機械ばかりに頼る世の中ではありますがパソコンのモニター越しでも親の想いは彼に伝わっておりました。
メールばかりで会話する現代生活の悪影響が叫ばれる昨今
時には、手紙のような長いメールも捨てたものではないなあと感じるひとつの出来事でした。
亀村 俊二
京都駅から山陰線に乗り城崎で各駅停車に乗り換えると 海岸沿いを走って五つ目の駅に「鎧」(よろい)があります。
私はほぼ30年前にその鎧駅を訪れたことがあるのです。 何故そこに行ったのか
何の計画もなかったのですが
国道沿いに車を走らせると「鎧駅」と書かれた標識が目に入って来たのです。
私はなぜか「鎧」の文字にさそわれるように 国道から脇道にハンドルを切りました。
狭い山道をほんの少し走ると二股に分かれ、右の坂道を下って民家の間を過ぎると漁港に出ます。
左の道をまっすぐ進むと鎧の無人駅につきあたります。
駅は小高い位置にありそこから遠くに見える日本海を眺めると
湾を挟むように左右に山が迫り、眼下には漁村の家々が寄り添って立っていました。
そこはなんだかほっとする山陰の海岸風景で 暫く佇んでいたいと、そんな気持ちにさせる不思議な場所でした。
私は作家の宮本輝さんが好きでよく小説を読ませていただいてます。
「海岸列車」を読み始めた2ページ目に突然あの「鎧駅」が現われたのです。
自分の目を疑いました。
「なんで」「なんで鎧駅」
近辺に住まう人々以外誰も知らないような無人駅「鎧」が小説に
宮本輝さんも「鎧駅」に立って見るあの風景が忘れられなかったのか・・・
私は「海岸列車」を読み終えもう一度「鎧駅」にゆくことにしました。
今度は小説のとおり各駅停車に乗って「鎧駅」に降り立ちました。
そして上り列車が来るまでのほぼ1時間、そこで過ごすことにしたのです。
昨夜から降りつづく雨の中、まあるく見える湾を鳥瞰しながら写真を撮っていると
あの小説「海岸列車」のひとコマのように
眼下には数匹の鳶が海から吹きあげる風に乗って悠然と舞っていました。
亀村 俊二
京都駅にほど近い交差点で赤信号の変わるのを待っていました。
私が渡ろうとする先には、両手にたくさんのビニール袋をさげ一目見て ホームレスのような身なりの初老の男性が赤信号で立ち止まっていました。
そこへコンビニの自動ドアから数人の外国人観光客が買い物を終え出て来ました。
彼らの中の一人がそのホームレスの頭からつま先まで観察し始め そして、何やら話しかけポケットから小銭を出して彼に渡そうとしました。
私はその様子を見て、ほほー・・・なかなか微笑ましいことやなぁと感じていたのですが
外国人から小銭を差し出された彼は毅然と姿勢を正すかのようにして
はっきりと断り、その場から立ち去っていったのです。
残された外国人観光客は信じられないという表情で顔を見合わせておりました。
彼らが何を話したのか交差点の向こうのことで、なにも聞こえなかったのですが
今、私達が忘れかけている古き良き日本の「日本人のこころ」
そんな無言劇を遠くから垣間みたような一瞬でした。
亀村 俊二
小学生の頃、私の家には数匹の猫がいました。
いつも庭の大きな樫の木の二股でじゃれ合ったり昼寝をしたり
ところが毎年のように春ともなると子猫が産まれるのです。
今では考えられないことなのですが、当時の世間では子猫が産まれて貰い手がないと
段ボール箱にいれて人目に付く場所にこっそりと置いておくか
産まれたてのそれを川に流してしまうかどちらかであったようです。
私の家も子猫が産まれると母は困っていました。
そして、夜になると母はそれをもって何処かへ出てゆくのです。
朝になると子猫は何処にもいません。
ただ、母猫が子猫を探してニャーニャーとないているだけでした。
またいつものように、子猫が産まれた夜のことです。
母が私を呼びました。
「俊ちゃん、猫、捨てて来てえな」
私は母の言うことを素直に聞く子供でしたがこのときばかりは
「いやや」と素直に聞くことが出来ませんでした。
何度も懇願する母に根負けして、とうとう首を縦に振って
「うん」と言ってしまった私は、母の次のことばに耳を疑いました。
「ごろせ川に、捨てて来てくれたらええのや」
四、五匹の子猫は包まれた新聞紙の内側から柔らかな爪音をたてて
ミャーミャーとないています。
私は遠くに灯る電柱の明かりをたよりにごろせ川まで暗い道を歩いてゆくのです。
そしてザーっと音をたてて流れる暗闇の川に投げ入れたのです。
その包みは暗渠となった川にすいこまれてゆきました。
今になってもふっとした折りに、「ごろせ川」でのあのことが思い出されます。
そしてそのとき、小さな声で何度も
「お題目」をお唱えする私なのです。
亀村 俊二
小学二年生の頃の話です。
私が通っていた宮敷分校の側には「ごろせ川」と呼ばれる汚れた小さな川が とろとろと流れていました。やんちゃで少しきつね顔をしたAくんは放課後よくその川で魚捕りをして遊んでいました。
私はAくんにどんな魚が捕れるのかたずねてみました。
「ナマズや。大きいナマズが捕れるでえ」目を輝かせて真剣に彼は言いました。
「これくらいのが」と彼は両手を広げて見せました。
どうやって捕るのかと尋ねると「釘や。くぎを釣り針みたいに曲げてそれにひもをむすんで」「川に沈めといたら、すぐに釣れるわ」
私は家に帰って兄にそのことを話しました。
兄は私の話を信じませんでしたが私があまりにも夢中になってねだるものですから 釘を持って来て、金槌でたたき始めました。
不格好に曲がった釘がひも先についた仕掛けが出来上がり私は急いでそれをごろせ川へ沈めにゆきました。割り箸を折って結んだ浮きはいつまで待っても沈みません。
だいぶたって、私はふっと、もしかしてAくんにだまされたのではと思い始めました。
「こんなんでナマズが釣れるはずがない」
その時、網を持ったAくんと数人の上級生が川上からザブザブとしぶきをたてて 現われました。
そして川岸にしゃがみこんでる私を見つけるなり「わあー、あほやー、こんなんで釣れるはずないやろ」と、仲間と一緒に囃し立てて笑ったのです。
そんなことすら解らなかった私はその時 顔から火の出るくらい恥ずかしい思いをしたのをはっきりと覚えています。
Aくんが何故あんなに真剣な目をして私を騙したのか、そしてまた、からかったのか私はAくんのことが分からなくなり次の日から彼と話をあまりしなくなりました。 それは子供同士の遊びだったのでしょうか。
そのことがあってから彼はまもなく宮敷分校からどこかの町へ転校してゆきました。
亀村 俊二